物部守屋ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

磐舟の光芒―物部守屋と蘇我馬子〈上〉 (講談社文庫)

 

物部守屋(もののべのもりや)とは
古墳時代に活躍した有力豪族です。

誕生時期:不明
死亡時期:西暦587年7月

 

廃仏派であった物部守屋は、
崇仏派の蘇我馬子と対立します。

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物部守屋とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
物部守屋について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

 

目次

物部守屋ってどんな人?

磐舟の光芒―物部守屋と蘇我馬子〈下〉 (講談社文庫)

物部守屋の誕生日

物部守屋は
豪族であった物部尾興(もののべのおこし)
阿佐姫との間の子どもとして生まれます。
※物部守屋の具体的な誕生日は不明です。

 

物部守屋と敏達天皇

当時天皇であった欽明天皇は、
蘇我稲目の娘を妃としていて
蘇我氏と親密な関係を結んでいました。

 

しかし欽明天皇が亡くなった
572年、敏達天皇が即位します。

このとき物部守屋は廃仏派として、
崇仏派の蘇我馬子と対立しています。

 

敏達天皇は欽明天皇とは異なり
蘇我氏との血縁関係はなかったので
反蘇我氏の立場でした。

そのため物部守屋にとっては有利な状況でありました。

 

物部守屋と蘇我馬子の対立

敏達天皇即位に際して、物部守屋は
大連(おおむらじ)に任ぜられます。

 

それでも蘇我馬子は仏教信仰を
あきらめませんでしたが、同じ頃に
民の間で疫病が流行し始めます。

物部守屋と、神祇を祀る氏族の中臣勝海
異国の神(仏教)を信仰したのが原因だと
天皇に仏教の禁止を求めます。

 

そして物部守屋は自ら仏寺へと赴いて
仏塔や仏殿を焼き、仏像を難波堀江に投げ捨てます

さらに、3人の尼を捕らえて全裸にし
海石榴市(現在の奈良県)の駅舎へ連行して、群衆の目前で鞭を打ったそうです。

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物部守屋と用明天皇即位

しばらくして敏達天皇も疫病にかかり
586年、敏達天皇が亡くなります。

そして蘇我馬子の圧力によって
用明天皇が即位したことにより、
蘇我氏が息を吹き返します。

 

しかし、この決定を不満に思った
人物が穴穂部皇子(あなほべのみこ)です。

用明天皇の異母弟であった穴穂部皇子は
自身の天皇即位を強く望んでいたのです。

そのため、穴穂部皇子と
物部守屋が結託します。

こうして蘇我馬子と物部守屋の仏教に
関する対立は、用明天皇と穴穂部皇子の
皇位継承問題にまで発展します。

 

物部守屋と穴穂部皇子殺害

そして587年、わずか2年程の在位で
用明天皇が亡くなります。

物部守屋は穴穂部皇子を
次期天皇に推薦しようとします。

 

しかし、敏達天皇の皇后である炊屋姫
(かしきやひめ)と手を結んだ蘇我馬子によって
穴穂部皇子が殺害されます。

炊屋姫とは、後の推古天皇です。

 

蘇我馬子の方が一枚上手であり、
物部守屋は後ろ盾がなくなってしまいます。

 

物部守屋の最期

587年7月、蘇我馬子は物部守屋を
滅ぼすことを計画します。

そして蘇我馬子は
皇族や他の豪族も味方につけて
物部守屋の邸宅に攻め入ります。

これは丁未の乱(ていびのらん)と呼ばれています。

 

軍事に長けていた物部守屋は
587年8月(用明天皇2年7月)
奮闘しますが、弓矢で射抜かれてしまい亡くなります。

 

最後に

善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)

 

物部守屋とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
物部守屋について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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