蘇我馬子の死因とは?暗殺?聖徳太子の死が関係してる?【蘇我馬子の墓についてもわかりやすく解説】
結論からいいますと
蘇我馬子の死因は不明です。
死亡した時の年齢は70歳を超えているため
死因は病気や寿命の可能性が高そうですが
暗殺された可能性も、ゼロではありません。
- 蘇我馬子の誕生時期:551年
- 蘇我馬子の死亡時期:626年6月19日
※蘇我馬子の最期の年齢は75歳
目次
蘇我馬子の死因とは?【子は自殺、孫は刺殺】
繰り返しになりますが
蘇我馬子の死因は明らかになっていません。
ただし、
蘇我馬子の息子「蘇我蝦夷」の死因は自殺で
蘇我馬子の孫「蘇我入鹿」の死因は他殺です。
※蘇我入鹿は、乙巳の変(大化の改新)により刺殺されています。
蘇我馬子の最期が75歳という年齢だったため
蘇我馬子の死因は病気の可能性が高そうですが
なぜ暗殺された可能性も考えられるかというと
蘇我馬子が権力をもった政治家だったからです。
蘇我馬子ってどんな人?何をした?【生涯(誕生から最期まで)をわかりやすく簡単に】
蘇我馬子(そがのうまこ)は、飛鳥時代の政治家、貴族です。
豆知識ですが、蘇我馬子には嶋大臣(しまのおおおみ)という通称があります。
この名前の由来は、蘇我馬子の豪邸に島を浮かべた池があったからといわれています。
柴犬
蘇我馬子はどんな人だったのか?
蘇我馬子は何をした人だったのか?
その死因を考察する上でも役に立つ
蘇我馬子の生涯(誕生から最期まで)を
なるべくわかりやすく簡単にまとめます。
- 蘇我馬子の誕生日
- 蘇我馬子は権力をもった政治家に
- 蘇我馬子と聖徳太子による二頭政治
- 蘇我馬子の最期
蘇我馬子の誕生日
蘇我馬子は551年に、蘇我稲目(そがのいなめ)の子どもとして生まれたとされています。
※蘇我馬子の具体的な誕生日は不明です。
蘇我馬子は権力をもった政治家に
587年、蘇我馬子は政治面において対立していた物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼします。
その後、蘇我馬子の推薦により、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位します。
つまり蘇我馬子は、日本の政治を動かせる大きな権力をもちました。
しかし崇峻天皇は、政治の実権を握っていた蘇我馬子に対して次第に不満を募らせます。
そして天皇と対立した蘇我馬子は、592年に崇峻天皇を殺害します。
蘇我馬子と聖徳太子による二頭政治
蘇我馬子は593年に推古天皇を即位させます。
そして、推古天皇の摂政となった聖徳太子と協力して「朝廷の政治」を行います。
しかし622年に聖徳太子が亡くなった後は、再び蘇我馬子が権力を握ったのです。
蘇我馬子の最期
蘇我馬子の最期は
聖徳太子が亡くなってから約4年後の
626年6月19日(推古天皇34年5月20日)。
蘇我馬子の死因はいまだ不明ですが
これだけの権力をもっていた人なので
やはり暗殺の可能性もあるかもしれません。
ただ、蘇我氏の権力は子孫に引き継がれることとなりました。
蘇我馬子の死因に聖徳太子の死が関係している?
蘇我馬子は前述通り、聖徳太子と協力して「朝廷の政治」を行います。
もともと蘇我馬子と聖徳太子は外戚関係にあったのですが、さらに蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)が聖徳太子の妻になることで、近親関係となります。
有名な冠位十二階や十七条の憲法を決めたり、遣隋使などを行ったのもこの2人の合議によるものです。
少なくとも、政治に関して蘇我馬子と聖徳太子は協力関係にあったといえます。
しかし、蘇我馬子は心から「朝廷による政治」に賛成しておらず、むしろ聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していたと考えられます。
蘇我馬子の最期は
聖徳太子が亡くなってから約4年後の
626年6月19日(推古天皇34年5月20日)。
聖徳太子の死因には、蘇我馬子が関係している可能性があります。
もしも蘇我馬子が聖徳太子を暗殺していたとしたら、その暗殺に恨みをもつ人が蘇我馬子を暗殺する可能性もありそうですね!
柴犬
蘇我馬子のお墓は石舞台古墳?
蘇我馬子のお墓について、日本書紀に以下のような記述があります。
大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。
この大臣というのは蘇我馬子を指しています。
蘇我馬子の葬られた桃原墓は、
奈良県明日香村にある石舞台古墳
(いしぶたいこふん)だとする説が有力です。
石舞台古墳は、全長約19m、玄室の長さ約7.7mあり、国内最大級の横穴式石室です。