蘇我馬子ってどんな人?聖徳太子との関係性は?【蘇我馬子の墓についても解説】

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日本の礎を築いた男たち―蘇我馬子と厩戸皇子 (まんが解説 変革の日本史)

 

蘇我馬子(そがのうまこ)とは
飛鳥時代政治家、貴族です。

誕生時期:551年
死亡時期:626年6月19日

 

邸宅に島を浮かべた池があったことから
嶋大臣とも呼ばれたそうです。

 

この記事では
蘇我馬子とはどんな人だったのか
聖徳太子との関係性や墓についても解説していきます。

 

 

 

蘇我馬子とはどんな人なのか?

飛鳥京物語―蘇我稲目と馬子の時代

  • 蘇我馬子の誕生日
  • 蘇我馬子と物部守屋
  • 蘇我馬子と聖徳太子による二頭政治
  • 蘇我馬子の最期

蘇我馬子の誕生日

蘇我馬子は551年蘇我稲目(そがのいなめ)
子どもとして生まれたとされています。
※蘇我馬子の具体的な誕生日は不明です。

 

蘇我馬子と物部守屋

磐舟の光芒―物部守屋と蘇我馬子〈上〉 (講談社文庫)

 

587年、蘇我馬子は政治面において
対立していた物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼします。

その後蘇我馬子は
崇峻天皇(すしゅんてんのう)を推薦し、
崇峻天皇が即位します。

 

しかし崇峻天皇は、政治の実権を握っていた
蘇我馬子に対して次第に不満を募らせます。

対立した蘇我馬子は、592年に崇峻天皇を殺害します。

 

 

蘇我馬子と聖徳太子による二頭政治

聖徳太子: 実像と伝説の間

 

蘇我馬子は推古天皇を立てて
593年、推古天皇を即位させます。

 

推古天皇の摂政となった聖徳太子
協力して「朝廷の政治」を行います。

 

しかし622年に聖徳太子が亡くなった後は、再び蘇我馬子が権力を握ったのです。

 

 

蘇我馬子の最期

蘇我馬子は
聖徳太子が亡くなってから約4年後の
626年6月19日(推古天皇34年5月20日)に亡くなります。

 

蘇我氏の権力は子孫に引き継がれることとなりました。

 

 

 

蘇我馬子のお墓について

蘇我氏の古代 (岩波新書)

 

蘇我馬子のお墓については
日本書紀に以下のような記述があります。

大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。

大臣というのは蘇我馬子を指しています。

蘇我馬子の葬られた桃原墓は、
奈良県明日香村にある石舞台古墳
(いしぶたいこふん)
だとする説が有力です。

石舞台古墳は、全長約19m、
玄室の長さ約7.7mあり、国内最大級の横穴式石室です。

 

 

蘇我馬子と聖徳太子の関係性について

蘇我馬子は前述通り、聖徳太子
協力して「朝廷の政治」を行います。

 

もともと蘇我馬子と聖徳太子は
外戚関係にあったのですが、さらに
蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)
聖徳太子の妻になることで、近親関係となります。

有名な冠位十二階や十七条の憲法を決めたり
遣隋使などを行ったのもこの2人の合議によるものです。

 

 

少なくとも、政治に関して
蘇我馬子と聖徳太子は協力関係にあったといえます。

 

しかし、蘇我馬子は心から
「朝廷による政治」に賛成しておらず
むしろ聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していたと考えられます。

 

 

 

最後に

日本の礎を築いた男たち―蘇我馬子と厩戸皇子 (まんが解説 変革の日本史)

 

この記事では
蘇我馬子とはどんな人だったのか
聖徳太子との関係性や墓についても解説しました。

 

 

 

 

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