大森兵蔵ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
大森兵蔵(おおもりひょうぞう)は
明治時代から大正時代までを生きた
近代スポーツの指導者、YMCA体育教授です。
誕生時期:1876年3月14日
死亡時期:1913年1月13日
日本が初めて参加した
ストックホルム・オリンピックでは
監督として同行しています。
大森兵蔵とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
大森兵蔵について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
大森兵蔵ってどんな人?
大森兵蔵の誕生日
大森兵蔵は、1876(明治9)年3月14日に岡山県岡山市で誕生します。
大森兵蔵の経歴
大森兵蔵は、現在の同志社大学である
同志社普通校を途中で退学して、東京の
東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。
そして東京高等商業学校を経て、
渡米してカリフォルニアにある
スタンフォード大学の経済学部に入学します。
さらに大森兵蔵は、
国際YMCAトレーニングスクールで
体育学に入学します。
YMCAとは、キリスト教青年会のことで
Young Men’s Christian Associationの略。
キリスト教の理想とする社会の建設を
目的とする青年の団体です。
大森兵蔵と結婚
大森兵蔵はYMCAトレーニングスクールで
日本人の体格向上を目指してテニス、
バスケットボールやバレーボールなどの
当時の最新のスポーツや体育学を学びます。
また、1909年には留学先で知り合った
アニー・シェプレー(Annie B.Shepley)と結婚。
大森兵蔵の19も年上であった
アニー・シェプレーは日本に帰化した際に
大森安仁子と改名します。
大森兵蔵とスポーツ
1908年、大森兵蔵は
YMCAトレーニングスクールを卒業後
日本へ帰国します。
東京YMCAの初代体育部主事に就任し、
バスケットボールの指導を開始します。
さらに日本女子大学の教授となって
バレーボールやテニスなども教えています。
日本で普及するようになったのは
大森兵蔵の死後ではありますが、
日本に初めてバスケットボールや
バレーボールなどを伝えたのは大森兵蔵なのです。
大森兵蔵と有隣園
大森兵蔵は、日本人の体格向上には
子どもの頃からの運動が必要だと考えて
児童遊園の設置を訴えますが、
反対されて東京YMCAの体育主事を辞任。
そして大森兵蔵は、私財を投じて
恵まれない子どものための児童福祉施設
「有隣園(ゆうりんえん)」を設立しました。
大森兵蔵と大日本体育協会
1912年、クーベルタン男爵からの
要請を受けてオリンピックへ参加が決まり
日本体育協会の前身である
大日本体育協会が設立されます。
大森兵蔵は、その総務理事となります。
大森兵蔵とストックホルム・オリンピック
オリンピック予選会の結果、
金栗四三(かなくりしそう)と三島弥彦が
オリンピックへ派遣されることとなります。
そして大森兵蔵は、監督として
ストックホルム・オリンピックに同行します。
当時、海外渡航者はほとんどおらず、
大森兵蔵は貴重な人材であったのです。
しかし、17日間にもわたる長い道中で
大森兵蔵は以前から患っていた結核が悪化、
現地での参加はほとんどできなかったそうです。
大森兵蔵の最期
ストックホルムで静養後、大森兵蔵は
アメリカに渡り、アニーの親戚を訪ねます。
病状が悪化し、アメリカの病院に入院。
入院から一か月後であった
1913年1月13日に、大森兵蔵は亡くなります。享年37歳。
最後に
大森兵蔵とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
大森兵蔵について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。