大塩平八郎の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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爆発している様子
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結論からいいますと
大塩平八郎の死因は自殺です。

大塩平八郎は反乱を起こし
その中で短刀や火薬を用いて
自分の子供と一緒に爆死しました。

  • 大塩平八郎の誕生日:1793年3月4日
  • 大塩平八郎の命日:1837年5月1日

※大塩平八郎の最期(最後)の年齢は44歳

 

大塩平八郎の最期(最後)に
一緒に死亡したその子どもは
大塩格之助という名前の子でした。

 

大塩平八郎はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

大塩平八郎―構造改革に玉砕した男

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力です。

  • 大塩平八郎の誕生日:1793年3月4日
  • 大塩平八郎の命日:1837年5月1日

※大塩平八郎の最期の年齢は44歳

 

大塩平八郎の乱
日本史で欠かせない有名な出来事ですね。

 

大塩平八郎はどんな人なのか?
何をした人だったのか?など
大塩平八郎の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

大塩平八郎の死因の考察にぜひお役立てください💡

柴犬

 

大塩平八郎の誕生日

大塩平八郎は1793年3月4日(寛政5年1月22日)に大坂天満(現在の大阪府)で、与力の大塩敬高(よしたか)の長男として誕生します。
※与力(よりき):江戸幕府における代表的な職名。

 

大塩家は代々、大阪東町奉行組与力で、大塩平八郎は8代目にあたります。

 

大塩平八郎と町与力

大塩平八郎は25歳で正式な与力となり、
特に同僚の西町奉行与力の汚職事件では
内部告発を行って、不正の摘発をしています。

奉行所内では
大塩平八郎を憎む者もいましたが、
上司である高井実徳が支えたそうです。

 

しかし、
1830年に高井実徳が転勤となり
大塩平八郎も町奉行与力を辞職

養子である大塩格之助家督を相続して、大塩平八郎は隠居します。

 

大塩平八郎と陽明学

大塩平八郎は、与力で務めている間に
ほぼ独学で陽明学(ようめいがく)を学びます。

陽明学とは、朱子学の人欲否定を批判し
人欲を肯定した現実主義的な考え方です。

 

1825年からは自宅で私塾である
洗心洞(せんしんどう)を開いて子弟に陽明学を教えます。

そのため、与力辞職後は塾を開きつつ
陽明学を本格的に研究したそうです。

 

大塩平八郎と天保の大飢饉

1833年から1836年、
冷害や長雨、台風、洪水などの大被害で
米の収穫量が激減し、米の価格が高騰します。

天保の大飢饉です。

 

当時、大塩平八郎の住んでいた大坂では
一日に数百人の餓死者が出てしまい、
また地方から民も流れて、治安が悪化。

 

さらに、米不足に際して
商人たちが米を買い占めてしまった為、
町民らは米が買えないという事態に陥ります。

 

1836年に大塩平八郎が、奉行所に
飢饉の対策をするよう直訴しますが無視。

大塩平八郎は、自分の持っていた
5万冊の書物をすべて売り払い、
そのお金を民衆に分け与えます。

それだけではとても追いつかず、
幕府に不満を募らせた大塩平八郎は
ついに挙兵することを決意したのです。

 

大塩平八郎の乱

大塩平八郎は大砲や火薬を買い込みます。

しかし、大塩平八郎の門弟2人が裏切って
計画を奉行所に密告してしまいます。

このことが分かり、準備不足な状態でしたが
大塩平八郎は自宅に火を放って反乱を宣言。

 

商人たちの家を襲撃させて、
大坂の町は5分の1が焼けたそうです。

 

大塩平八郎は、息子の大塩格之助と
40日間逃走して町の民家に潜伏しますが
家を包囲されてしまった為、自ら放火します。

 

大塩平八郎の最期

大塩平八郎は
1837年5月1日(天保8年3月27日)
自決(自殺)して亡くなります。享年44歳。

その後、大塩平八郎の焼死体は
幕府によって塩漬けにして保存され、
門弟20人とともにはりつけにされたと伝わります。

大塩平八郎の死因は自殺です。

大塩平八郎は反乱を起こし
その中で短刀や火薬を用いて
自分の子供と一緒に爆死しました。

  • 大塩平八郎の誕生日:1793年3月4日
  • 大塩平八郎の命日:1837年5月1日

※大塩平八郎の最期(最後)の年齢は44歳

 

大塩平八郎の最期(最後)に
一緒に死亡したその子どもは
大塩格之助という名前の子でした。

 

 

大塩平八郎の子孫はだれ?

 

大塩平八郎には、
大塩格之助という養子が1人いますが
大塩平八郎と共に爆死しています。

また、兄弟などもいなかったことから
近い血族の子孫はいないのかもしれません。

 

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