応天門の変(おうてんもんのへん)は
平安時代前期に起こった政治事件です。
当時の都である平安京にある
応天門が放火されてしまいます。
応天門の変とは何か?
どのような政治事件か?などなど
応天門の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
応天門の変とは?
応天門の変とは、平安時代前期の
866(貞観8)年3月10日に起こった
応天門が放火された事件です。
当時の大納言である伴善男(とものよしお)は、
左大臣の源信(みなもとのまこと)の犯行であると告発します。
しかし、当時権力を握っていた太政大臣の
藤原良房の進言により、源信は無罪に。
その後、密告があり伴善男父子に
嫌疑がかけられます。
伴善男自身は犯行を否認していましたが、
伴善男の家来たちが犯行を認めた
ということで有罪となります。
そして伴善男は伊豆国(静岡県)へ、
息子の伴中庸(なかつね)は隠岐国(島根県)へ
流罪となりました。
この事件により、古き時代から
続いた大伴氏は没落に至ります。
応天門の変は、藤原氏による
他氏排斥事件の一つとなります。
応天門とは?
応天門とは、当時の都である平安京の
朝廷内で政務や重要な儀式を行う場である
朝堂院(ちょうどういん)の正門です。
平安京への遷都から約70年で
天皇権威の象徴ともいえる宮殿の正門が
焼け落とされてしまったのです。
応天門の変の真相は?
結果としては、当時実質的な
最高権力者である藤原良房の判断によって
伴善男父子に疑いがかかり有罪となります。
実際に、応天門を焼いた
犯人は誰だったのでしょう?
この応天門の変の真相はよく分かっていません。
伴善男が犯人であるとする説もあれば
藤原良房が裏で活躍していた?とする
説などもあったりします。
応天門の変の事件を伝える
「伴大納言絵巻」という絵巻も300年後に
作成されたものであり、どこまで
事実に基づいているのか分かりません。
応天門の変の影響
事件の後、藤原良房は清和天皇から
権限を委ねられています。
応天門の変が起きた結果、
伴氏は政界から追放され没落します。
それと反対に、真犯人を見つけたとして
太政大臣の藤原良房の名声が高まります。
邪魔者がいなくなった
藤原良房の立場が盤石なものとなり、
摂関政治への道が開かれることになります。
そして藤原北家による政権独占体制へつながっていきます。
最後に
応天門の変とは何か?
どのような政治事件か?などなど
応天門の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。