結論からいいますと
清少納言の死因は不明です。
- 清少納言の誕生時期:966年
- 清少納言の死亡時期:1025年
※清少納言の最期の年齢は約60歳
清少納言の最期の年齢は約60歳、平安時代当時だとかなり高齢なので、清少納言の死因は病死や寿命と考えるのが自然かもしれません💡
清少納言はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
清少納言(せいしょうなごん)とは
平安時代中期の女流作家、歌人です。
- 清少納言の誕生時期:966年
- 清少納言の死亡時期:1025年
※清少納言の最期の年齢は約60歳
随筆「枕草子」の著者として知られています。
清少納言とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
清少納言の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
※清少納言の死因考察に役立つ情報も盛りだくさんです💡
清少納言の誕生日
清少納言は、966年(康保3年)頃に
梨壺の五人の一人にして著名歌人であった
清原元輔(きよはらのもとすけ)の次女として誕生します。
※清少納言の具体的な誕生日は不明です。
「清少納言」とは女房名であり、本名ではありません。
※清少納言の本名は不明です。
”清”は清原姓に由来していますが、近い親族で”少納言”職を務めたものはおらず、よく分かっていません。
清少納言の結婚と離婚
清少納言は981年頃、
陸奥守(現在の福島県周辺)の
橘則光(たちばなののりみつ)と結婚します。
翌年に一子の橘則長を誕生しますが、
夫とは性格の不一致により離婚。
しかし、夫の橘則光とは
その後もしばらく交流があり、
宮中公認の友人関係であったようです。
清少納言と小馬命婦
991年頃、清少納言は
親子ほど年の離れた摂津守の
藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚。
そしてのちに女流歌人として知られる
小馬命婦(こまのみょうぶ)を産んでいます。
※円融朝の歌人で「小馬命婦集」で
知られる同名の小馬命婦とは別人。
清少納言と藤原定子
993年、清少納言は
関白の藤原道隆(ふじわらのみちたか)から
一条天皇の中宮(妃)である
藤原定子(ていし)の教育係を依頼されます。
清少納言は藤原定子の女房として仕え、
その機転の良さや博学さなどから
藤原定子からとても気に入られます。
そして清少納言は、藤原道隆をはじめ、
公卿貴族と華やかな交流生活をしたそうです。
- 藤原道隆
- 藤原伊周(これちか)
- 藤原実方(さねかた)
- 藤原斉信(ただのぶ)
- 藤原行成(ゆきなり)
- 源宣方(のぶたか)
- 源経房(つねふさ)
少なくとも、これらの貴族たちと
親交していたことが史料から分かっています。
特に藤原実方との手紙のやり取りが多く知られ、恋愛関係にあったと推定されています。
清少納言と藤原定子の死
995年、藤原定子の父である
藤原道隆が亡くなります。
関白であった父の後ろ盾がなくなった
藤原定子を、清少納言が盛り立てます。
そして1000年、藤原定子は
一条天皇の皇后(正式な妃)となりますが、
出産の際、難産で亡くなります。
翌年、清少納言は宮廷を退きます。
清少納言の最期
その後の清少納言の詳細は不明です。
そのため清少納言の死因は
現在明らかになっていません。
清少納言は平安時代の1025年(万寿2年)頃に
藤原棟世がいる摂津(現在の大阪府、兵庫県)で
その最期(最後)を迎えたと考えられています。
清少納言の死因は不明です。
- 清少納言の誕生時期:966年
- 清少納言の死亡時期:1025年
※清少納言の最期の年齢は約60歳
清少納言の最期の年齢は約60歳、平安時代当時だとかなり高齢なので、清少納言の死因は病死や寿命と考えるのが自然かもしれません💡
清少納言の「枕草子」とは?
清少納言の『枕草子』は
”春はあけぼの”で有名な随筆です。
随筆とは、作者目線の感想や思想を
つづるもので、清少納言は
藤原定子に仕えていた頃の宮仕えの
体験などを敏感な感覚で描いています。
また枕草子は世界初の随筆と称されています。
同じ時代に描かれた紫式部の
『源氏物語』とは対照的に、
枕草子は明るいエッセイとして有名です。