紫式部の死因とは?暗殺された?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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紫式部の像
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結論からいいますと
紫式部の死因は不明です。

※紫式部の最期の年齢は38歳

  • 紫式部の誕生時期:978年
  • 紫式部の死亡時期:1016年

紫式部は平安時代を生きた女性。
今から約1000年も昔の時代なので
紫式部の死因の記録は残っていません。

 

紫式部のライバルとされている
清少納言は約60年間生きましたが
紫式部は38歳で死亡しているため
誰かに暗殺された可能性もありそうです。

平安時代は政治的な暗殺も多い時代なので
藤原道長に関係する人が犯人かもしれません。

真実は謎のままです。

 

紫式部はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

紫式部日記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

紫式部 (むらさき しきぶ)
平安時代中期の女性作家、詩人です。

  • 紫式部の誕生時期:978年
  • 紫式部のの死亡時期:1016年

※紫式部の最期の年齢は38歳

 

世界最古の小説『源氏物語』の
著者として知られていますが、
いくつか不明な点も残されています。

 

紫式部とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
紫式部の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

紫式部の死因に関係する情報がたくさんあるかと思います!💡

柴犬

紫式部の誕生日

紫式部は、近年の研究では
970年(天禄元年)から978年(天元元年)
間に誕生したと考えられています。
※紫式部の具体的な誕生日は不明です。

 

父は藤原北家良門流の越後守であった
藤原為時、母は摂津守の藤原為信の娘です。

母を早くに亡くし、漢学者であった
藤原為時の手で育てられたようです。

 

また、紫式部の本名は不明です。

 

紫式部と夫の死別

紫式部は幼少の頃から、
当時の女性に求められる以上の才能があり、
漢文を読みこなすなど才女であったと伝わります。

藤原為時は越前国の受領となった為
紫式部も2年ほど越前で暮らします。

998年頃、紫式部は山城守の藤原宣孝と結婚、
翌年に一女の藤原賢子を儲けます。

しかしわずか2年後の1001年には
夫の藤原宣孝と死別してしまいます。

 

紫式部は未亡人となってから
『源氏物語』の執筆を開始
したと推測されています。

 

紫式部と女房時代

その後1006年頃から紫式部は、
一条天皇の中宮の彰子(藤原道長の長女)
女房兼家庭教師として仕えます。

また、藤原道長と結婚した源倫子の
女房として仕えていたという説もあります。

 

紫式部のはじめの女房名は
藤式部」で、のちに「紫式部」と
呼ばれるようになります。

 

また、この女房時代の経験を踏まえた内容は
『紫式部日記』に詳しく記されています。

 

紫式部の最期

紫式部は1019年頃(寛仁3年)まで生存し、
40歳余りの年齢で亡くなったと考えられています。

死後、三十六歌仙の一人と称され、
1966年には日本人として初めて
ユネスコの”偉人年祭表”に加えられました。

 

紫式部の死因は不明です。

  • 紫式部の誕生時期:978年
  • 紫式部のの死亡時期:1016年

※紫式部の最期の年齢は38歳

紫式部は平安時代を生きた女性。
今から約1000年も昔の時代なので
紫式部の死因の記録は残っていません。

紫式部のライバルとされている
清少納言は約60年間生きましたが
紫式部は38歳で死亡しているため
誰かに暗殺された可能性もありそうです。

平安時代は政治的な暗殺も多い時代なので
藤原道長に関係する人が犯人かもしれません。

真実は謎のままです。

 

 

紫式部の作品

ここでは簡単に
紫式部の作品について紹介します。

  • 源氏物語
  • 紫式部日記

これらの作品について
以下で解説していきます。

 

紫式部の「源氏物語」

源氏物語(全五十四帖収録)

冒頭でも述べましたが、
紫式部の「源氏物語」は
世界最古の長編小説です。

1004~1012年頃に作られたようで
すべてが紫式部の執筆ではないです。

 

天皇の子である光源氏を主人公に、
貴族たちの恋愛と人生を描いた物語です。

 

紫式部が仕えていた彰子は、
この源氏物語を気に入って、
夫の一条天皇に披露します。

そして一条天皇も、
源氏物語を読みたいが為に
彰子の部屋へ通ったそうです。

 

紫式部の「紫式部日記」

新編日本古典文学全集 (26) 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記

『紫式部日記』は、紫式部が
中宮の彰子に仕えていた頃
書いた日記です。

 

1008年7月から1010年1月の記録で
一条天皇の夫の中宮彰子の出産を中心に
はなやかな後宮生活の様子と、
その間の紫式部の感想が書かれています。

また和泉式部、赤染衛門、清少納言
などへの批評や感想を細かく記しています。

 

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