下関条約(日清講和条約)とは?賠償金はいくら?【内容や場所などをわかりやすく解説】
1894(明治27)年に勃発した日清戦争は
明治維新以降、日本が初めて経験した外国との戦争です。
日清戦争の後、
下関条約の名前で有名な
日清講和条約が結ばれました。
明治時代に起きた
下関条約(日清講和条約)とは何か?
場所や内容、賠償金はいくら?などなど
下関条約について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
下関条約(日清講和条約)とは?
下関条約(しものせきじょうやく)とは、
日清戦争で日本が清国に戦勝したことで
1895年4月17日に結ばれた講和条約です。
正式名称を日清講和条約と言います。
日本は明治維新以降、近代化を推し進めていました。
そのため日本は、当時近代化の進んでいなかった清国に圧勝することができました。
下関条約(日清講和条約)の場所
1895年3月19日、日本に勝てないことを
見越した清国の李鴻章(りこうしょう)が来日します。
そして翌日、伊藤博文ゆかりの地である
山口県の下関市にある春帆楼(しゅんぱんろう)という
割烹旅館で講和交渉が始められます。
日本側は伊藤博文首相と
陸奥宗光外相が出席しました。
その後、何度か下関の地で
交渉が勧められた結果、1895年4月17日に
下関条約(日清講和条約)が締結されます。
1937年には
日清講和記念館が春帆楼の敷地内に設置、
館内には会議の様子が再現されています。
下関条約(日清講和条約)の内容
ここでは
下関条約の内容を
紹介していきます。
- 朝鮮独立の承認
- 遼東(りょうこう)半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に割譲
- 賠償金として2億両(テール)を日本に支払う
- 日清通商航海条約の締結と沙市、重慶、蘇州、抗州の開港
遼東半島は中国第二の大きな島で、
戦略上とても重要な地でした。
しかし、この遼東半島は
のちの三国干渉によって清国に
返還されることになり、日露戦争へとつながったのです。
下関条約の賠償金はいくら?
敗北した清国は、講和会議で
2億両を日本に支払うことが決まります。
2億両とは当時の日本円にして
3億1000万円に匹敵します。
現在の日本円では約360兆円にも
およぶと考えられています。
日本が日清戦争で使ったお金が
約2億円程だったそうで、これは当時の日本の
国家予算の約2年分のと同じという莫大な金額でした。
また、当時「両」という単位は
銀の重さで決められていました。
1両がおよそ37.5gだった為、2億両だと
750kgの銀が支払われたということになります。
最後に
この記事では
下関条約(日清講和条約)とは何か?
内容や場所、賠償金はいくら?などなど
下関条約(日清講和条約)について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。