鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は
平安時代に起きた陰謀事件です。
鹿ケ谷事件とも呼ばれます。
鹿ケ谷の陰謀とは何か?
どのような陰謀事件か?などなど
鹿ケ谷の陰謀について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
鹿ケ谷の陰謀とは?
鹿ケ谷の陰謀とは
安元3(1177)年5月に京都で起こった
平家を打倒するための陰謀事件です。
京都、東山鹿ケ谷にある信西の子、
静賢法印の山荘で謀議が行われたことから
”鹿ケ谷の陰謀”と名付けられたそうです。
しかし近年では、この陰謀が平清盛によって
でっち上げられたものとする説などがあり
鹿ケ谷事件と呼ぶ人もいます。
平家を滅ぼすための密議を行ったのは
藤原成親、師光、成経、静賢法印ら
後白河院の近臣たち。
しかし、この密議のことを、摂津源氏
多田行綱という人物が平清盛に密告します。
そして平清盛は福原京から上洛して
一味を捕らえ、師光を死罪とします。
藤原成親を備前に、成経、静賢法印を
鬼界ヶ島へ島流ししたことで終結したのです。
鹿ケ谷の陰謀の経緯
ここでは
鹿ケ谷の陰謀の経緯を
解説していきます。
源氏と平氏【鹿ケ谷の陰謀】
平安後期となると、それまでの
貴族に代わって、武力を持った
「武士」が政界で伸びあがっていきます。
その中でも源氏と平氏の2つの
勢力が大きく成長していき、貴族に
とって無視できない程になったのです。
平清盛の成長【鹿ケ谷の陰謀】
そして当時、平清盛率いる平氏が
源氏に勝利し、貴族たちを差し置いて
凄まじく勢力を伸ばしていきます。
平清盛は数々の政策を打ち出して
後白河上皇と上手に付き合いながら
平氏政権を行いどんどん昇進していきます。
平氏政権への不満【鹿ケ谷の陰謀】
しかし一方で、そんな平氏政権に対して
不満を持つ人々も少なくありませんでした。
例えば、平清盛の娘を
高倉天皇に嫁がせようと考えた際にも、
家柄が全く釣り合わないことから、一度
平清盛の娘を後白河上皇の養子にしてから結婚させたりします。
鹿ケ谷の陰謀
このような平清盛の強引ともいえる
振る舞いに対して、後白河上皇側の
近臣たちは北面の武士の多田行綱らに
頼って、平清盛討滅を企てます。
しかし北面の武士の多田行綱が
謀議の途中で恐ろしくなったことから
平清盛に密告したと考えられています。
鹿ケ谷の陰謀の影響
この鹿ケ谷の陰謀のあとですが、
後白河上皇に処分はありませんでした。
これは、平清盛の息子である平重盛が
命がけで懇願したからだそうです。
しかし、この事件によって
後白河上皇と平清盛の対立は決定的になり
なおかつ多くの部下を処罰された
後白河上皇の影響力は大きく衰えます。
さらに平清盛の娘が嫁いだ高倉天皇も
平清盛とつながっていることから、
平清盛はますます権力を振りかざしていくことになります。
最後に
鹿ケ谷の陰謀とは何か?
どのような陰謀事件か?などなど
鹿ケ谷の陰謀について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。