平賀源内ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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平賀源内(上・下合冊版)

 

平賀源内(ひらがげんない)とは
江戸時代中期を生きた本草学者、戯作者です。

誕生時期:1728年
死亡時期:1780年1月24日

 

平賀源内とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
平賀源内について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

平賀源内ってどんな人?

平賀源内: 江戸の天才アイデアマン (伝記を読もう 15)

平賀源内の誕生日

平賀源内は1728年(享保13年)
讃岐国(現在の香川県)で高松藩の足軽身分である
白石茂左衛門三男として誕生します。
※平賀源内の具体的な誕生日は不明です。

 

白石家の先祖は、戦国時代の
信濃国佐久の平賀城主である
平賀玄信(ひらがげんしん)とされています。

 

平賀源内と本草学

平賀源内は、幼少期の頃に
掛軸に細工をして酒を注ぐ徳利(とっくり)を置くと
掛軸の天神様が赤くなるという仕掛けをした
”お神酒天神”を作ったと言われています。

その評判がもとで平賀源内は
13歳から本草学儒学なども学んだり
俳諧(俳句の前身にあたる連歌)もたしなみます。

※本草学=中国古来の植物を中心とする薬物学。
江戸時代には博物学、物産学に発展していた。

 

平賀源内の長崎へ留学

1748年に父が亡くなった為、
平賀源内は家督を相続しますが
留学後には妹に婿養子を迎えさせて
家督を放棄しています。

留学先は長崎で、1年間本草学、
オランダ語、医学、油絵などを学びます。

 

27歳のときに平賀源内は、
高松藩の重臣からの要請で
磁針器(方位磁石)の製作をしています。

 

平賀源内の発明品

1756年に平賀源内は江戸へ出て
本草学者と儒学者にそれぞれ弟子入りします。

さらに2度目の長崎遊学では
鉱山の採掘精錬の技術を学び、
ヨーロッパ製の歩数計を改良して
量程計(万歩計)を作ります。

 

1759年には高松藩の家臣に登用されますが、
藩の許可を得ないと国内外の行き来が
できないことに不便を感じ、脱藩します。

このとき平賀源内は高松藩から、
他藩で役人などになることを禁止する
”仕官御構(しかんおかまい)”に処されます。

 

平賀源内は、自らを”天竺浪人”と名乗り
以下のような様々な事業に手を出します。

  • 鉱山の開発
  • 木炭の運送事業
  • 羊を利用した毛織物生産
  • 輸出用の陶器製作
  • 珍石、奇石の仲買

この頃には平賀源内の名は知れており、
杉田玄白中川淳庵らとも交流しています。

 

平賀源内と田沼意次

平賀源内は物産会などもたびたび行い、
鉱山開発などでも名声を得ていて、当時の
老中であった田沼意次にも気に入られていたようです。

新事業や物産展などは、田沼意次に
お金の支援をしてもらっていたようです。

 

そして幕府の命として、平賀源内は
水平を出すための道具である平線儀
防火用の火浣布(かかんぷ)などの開発もします。

 

平賀源内とエレキテル

また、平賀源内はエレキテル
作ったことでも有名です。

しかし実は、もともとエレキテルは
オランダで医療器具として用いられていて、
平賀源内は壊れたエレキテルの復元を行ったのです。

 

平賀源内の大工殺傷事件

1779年、平賀源内は
大名屋敷の修理を請け負います。

ある日酔っていた為か、なぜか
「大工たちが設計書を盗んだ」と勘違いし、
大工棟梁2人を殺傷してしまいます。

この事件により平賀源内は投獄されます。

 

平賀源内の最期

そして平賀源内は
1780年1月24日(安永8年12月18日)
感染症(破傷風)により、獄中死します。享年52歳。

 

最後に

平賀源内に学ぶイノベーターになる方法 (イノベーションのための理科少年シリーズ)

 

平賀源内とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
平賀源内について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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