大正デモクラシーとは
大正時代に起こった民主主義の思想、風潮です。
大正デモクラシーとは何か?
どのような思想だったのか?などなど
大正デモクラシーについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
大正デモクラシーとは?
大正デモクラシーとは
大正年間に起こった民主主義を要求する
思想、運動、風潮の総称です。
デモクラシー(democracy)とは
民主主義、民主政治の意味です。
大正デモクラシーとは、1954年の
信夫清三郎『大正デモクラシー史』
によって命名されました。
1912年の第一次護憲(ごけん)運動から始まり、
吉野作造が民本主義理論にて
政党内閣制と普通選挙の実現を
主張したことが代表に挙げられます。
大正デモクラシー期間については諸説ありますが、
普通選挙運動の政治目標が達成されてから
大正デモクラシーは衰退していきました。
大正デモクラシーの内容
ここでは
大正デモクラシーの内容を
紹介していきます。
- 護憲運動
- 吉野作造の民本主義理論
- 美濃部達吉の天皇機関説
- 米騒動
これらの内容について
以下で簡単に解説します。
護憲運動【大正デモクラシーの内容】
護憲運動は、1912年の第一次護憲運動と
1924年の第二次護憲運動があります。
第一次護憲運動では
軍備拡張を主張した桂太郎内閣が成立すると、
政友会、国民党、新聞記者らが中心となり
反対運動を起こしました。
第二次護憲運動では
貴族院を中心とした清浦奎吾内閣に反対した
憲政会、政友会、革新倶楽部の3派が
政党政治を主張して対抗し、加藤高明内閣を実現しました。
吉野作造の民本主義理論【大正デモクラシーの内容】
吉野作造の唱えた民本主義は
国民を主権とする民主主義とは異なり、
主権の所在はなく、政治の決定は
民衆の意向にするべきだという考え方です。
『中央公論』で発表されました。
当時、日本は天皇主権とされていた為、
この考え方だと天皇主権を否定することなく
民意を尊重することができたのです。
美濃部達吉の天皇機関説【大正デモクラシーの内容】
美濃部達吉が主張した天皇機関説は
国家を主権とし、天皇は法人である
国家の最高機関であるという考え方。
しかしこの説は、国家のあり方に反する
学説として非難されてしまい、
国体明徴問題を引き起こします。
最終的には政府の圧力に押されて
美濃部達吉の憲法に関する著書はすべて発売禁止にされました。
米騒動【大正デモクラシーの内容】
米騒動とは、シベリア出兵を見込んだ
米商人が米を買い占めたことで起こった騒動です。
米商人たちはシベリア出兵に備えて、
国に米を売って儲けようと考えます。
そして、市場に米を出し惜しみして
米価が高騰したのです。
これに憤慨した民衆が、県外への米の
積み出しを阻止したり、米屋を襲うなどします。
富山でのこの騒動が発端で、
名古屋、京都、広島などにも広まります。
これは護憲運動や普通選挙運動などにも影響を与えました。
最後に
大正デモクラシーとは何か?
どのような思想だったのか?などなど
大正デモクラシーについて
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。