屯田兵制度(とんでんへいせいど)は
明治時代に設けられた制度です。
屯田兵制度とは何か?
どのような制度だったのか?などなど
屯田兵制度について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
屯田兵制度とは何?
屯田兵制度とは、1874(明治7)年に
開拓次官の黒田清隆の提案によって
定められ、翌年から実施された
北海道開拓動員制度です。
”屯田”とは、中国の漢の武帝が
北方からの侵略に備えて配備した
田卒の駐屯地の名が由来です。
中国では漢の時代から明時代まで
盛んに行われた制度だったのです。
屯田兵制度の主な目的は次の2つ。
- 北海道と北方領土の開拓
- 北方の警備
明治政府は、
当時貧困だった東北の士族たちに
北海道開拓の動員募集をかけます。
そして北海道の各地に住まわせて
組織的、計画的に兵農両面の開拓をさせました。
札幌近郊の琴似村(ことにむら)を皮切りに
東北地方から965人が徴募され、
翌年移住します。
その半数は仙台藩で、4分の1は
会津藩の出身者だったそうです。
屯田兵制度導入当初は
士族に限定されていましたが、
1890年以降は族籍に関係なく
平民からも募集を行います。
また1890年を境に陸軍省が経費を
支出しており北海道各地で37兵村、
7,337戸、40,000人が入植します。
彼らは農業や自治の面で
北海道発展の基盤を築きました。
屯田兵制度は1904(明治37)年に廃止されます。
屯田兵制度の内容
屯田兵は具体的に次のことをしました。
- 農業
- 出兵
屯田兵制度で派遣された兵士たちは
主に農業を営むかたわら軍事訓練を行います。
他にもロシア南下政策に対抗するため
屯田兵はロシアの警備などにもあたります。
日清戦争、日露戦争に参加するだけでなく
日本の内戦である西南戦争にも参加しています。
開拓使と屯田兵の違い
明治時代の同じ頃に、明治政府は
「開拓使」と呼ばれる行政機関も置いています。
「屯田兵」とはどのように違うのでしょうか?
開拓使とは
1869年から1882年までの間、
北海道や北方領土開拓経営のために
置かれた行政機関です。
一方で屯田兵は
北海道開拓のために本土から
渡った士族達を指します。
つまり、開拓使と屯田兵は簡単に言うと
「機関」と「人」の違いですね。
屯田兵制度の影響
屯田兵制度を行ったことによって
どのような影響が生まれたのでしょうか。
- 北海道の開拓
- 札幌農学校の設立
- アイヌ同化政策
北海道に派遣された人々は、家族で移住します。
そうなると、学校の設立も必要です。
1876年に来日したクラークによって
北海道の農業改良、生産発展の
教育施設となる札幌農学校が設立されます。
これにより北海道の農業は大きく進化し、
日本有数の農業地へと生まれ変わったのです。
最後に
屯田兵制度とは何か?
どのような政策だったか?などなど
屯田兵制度について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。