藤原頼長ってどんな人?何をした人?【藤原頼長の日記「台記 」についても解説】

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藤原頼長 (1964年) (人物叢書 日本歴史学会編)

藤原頼長(ふじわらのよりなが)とは
平安時代末期を生きた公卿(くぎょう)です。

誕生時期:1120年5月
死亡時期:1156年8月1日

 

通称は宇治左大臣であり、
日記「台記」でも有名です。

 

この記事では
藤原頼長とはどんな人だったのか
藤原頼長の日記「台記」についても解説していきます。

 

藤原頼長ってどんな人?

藤原頼長 (人物叢書 新装版)

藤原忠実(父)からの寵愛

藤原頼長は1120年(保安元年)5月に
摂政関白太政大臣藤原忠実(ただざね)
次男(三男の説も)として誕生します。

 

藤原頼長は博識多才であった為、
父(忠実)に寵愛・庇護されます。

 

藤原忠通(兄)との対立

これにより異母兄の関白であった
忠通(ただみち)と次第に対立していきます。

白河法皇の死後、鳥羽上皇の院政が始まると
宇治で隠退していた父が復帰します。

父の復帰によって
藤原頼長はさらに有利に。

父は忠通との親子の縁を切ってしまい
藤原頼長が摂関家の氏長者として権力を振るまいます。

 

「悪左府」の異名

藤原頼長:「悪左府」の学問と言説 (早稲田大学エウプラクシス叢書)

1151年、藤原頼長は内覧宣旨を受けて
近衛天皇の下で政治を行うこととなります。

しかし、厳格で融通のきかない性格だった為
周囲からの理解を得られずに孤立します。

その厳しく激しい妥協を知らない性格から
悪左府(あくさふ)」という異名までつけられました。

 

保元の乱を起こすが惨敗

さらに近衛天皇が亡くなった際には
「忠実と頼長が天皇を呪い殺した」という
噂が流れ鳥羽法皇の支持を失って
内覧の権利をはく奪されてしまいます。

 

鳥羽法皇の死後、
藤原頼長はこの窮地を脱するために
政権の奪取を企てます。

そして1156年7月、
父の忠実と共に崇徳上皇を擁して
保元の乱を起こします。

しかし崇徳上皇側は惨敗し、
藤原頼長は逃走の途中で亡くなります。

1156年8月1日のことでした。

 

藤原頼長の日記「台記」って?

台記 (1966年)

台記(たいき)」は現在でも有名な
藤原頼長の日記です。

この台記は

  • 宇槐記
  • 宇左記
  • 宇治左府記
  • 治相記

などとも呼ばれています。

 

何故、この日記が有名かというと
男色であったとされる藤原頼長の
生活や政治などについても詳しく
書かれているからなのです。

1136年から1155年までの
約19年の間、記録されています。

当時の公家の性風俗だけではなく、
政治などの出来事を知ることができる
とても貴重な史料なのです。

 

保元の乱前夜の摂関家や当時の故事や、
藤原頼長が武士や貴族たちと
男色をたしなんでいたことも書かれています。

原本は存在していませんが、
いくつかの写本などに断続的に記録が残されています。

 

最後に

学校では習わない 愛と夜の日本史スキャンダル (じっぴコンパクト新書)

この記事では
藤原頼長とはどんな人だったのか?
藤原頼長の生涯だけでなく、
藤原頼長の日記「台記」についても解説しました。

 

 

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