保元の乱とは?【簡単にわかりやすく解説】

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夜襲
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待賢門院璋子―保元の乱前夜

保元の乱(ほうげんのらん)とは
平安時代末期に起こった戦争です。

開戦時期:1156年7月

 

公家の内部抗争に武士の力を借りたことで
武士政権へつながるきっかけとなりました。

この保元の乱については
関係人物の人間関係などが複雑で
少しわからずらい部分が多いので
なるべくかみ砕いてわかりやすく要約しました。

 

この記事では
保元の乱とはどんな戦争だったのか
わかりやすく簡単に解説していきます。

 

保元の乱とは?

花と散りにし 保元の乱を詠む

まず、保元の乱について
概要を簡潔に説明します。

保元の乱とは
1156年(保元元年)7月に
朝廷内の後白河天皇
崇徳上皇方との間で起きた争いです。

決戦の場所は平安京です。

 

皇室だけでなく、藤原家も対立して
源氏や平氏の武士団を招じ入れて戦います。

 

具体的には
次のように分かれて争われます。

【後白河天皇方】
  • 藤原忠通(関白)
  • 藤原通憲(信西)
  • 平清盛(伊勢平氏)
  • 源義朝(河内源氏)
  • 源頼政(摂津源氏)
  • 源義康(河内源氏足利流)
  • 源重成(美濃源氏)
  • 平信兼(伊勢平氏)
【崇徳上皇方】
  • 藤原頼長(藤氏長者)
  • 源為義(河内源氏)
  • 源頼賢(河内源氏)
  • 源為朝(河内源氏)
  • 平忠正(伊勢平氏)
  • 平家弘(伊勢平氏)
  • 源頼憲(摂津源氏)

 

のちに対立して、歴史に名を残す
平清盛源義朝は当時仲間でした。

 

結果は崇徳方が敗れた為、
崇徳上皇は讃岐(現・香川県)に流され
藤原頼長は戦死してしまいます。

 

この保元の乱は、
その後約700年間にわたる
武士政権の道へ進むきっかけとなる戦いです。

 

 

保元の乱が起きた経緯

学習まんが NEW日本の歴史04 武士の世の中へ (学研まんが NEW日本の歴史)

保元の乱が起きた経緯ですが、
これは様々な人間関係や政治対立などが関わってきます。

  • 皇位継承問題【後白河天皇と崇徳上皇】
  • 摂関家【藤原忠通と藤原頼長】

皇位継承問題【後白河天皇と崇徳上皇】

まず皇位継承問題で対立したのが
後白河天皇と崇徳上皇です。

鳥羽法皇が亡くなったことをきっかけに
天皇を退いて上皇となっていた崇徳上皇が
再び朝廷の実権を握ろうとします。

そこで、崇徳上皇は
藤原頼長と手を組んで
保元の乱を起こすのです。

 

摂関家【藤原忠通と藤原頼長】

また、摂関家の藤原兄弟も対立していました。

二人の父である藤原忠実は、
兄の藤原忠通よりも
弟の藤原頼長を可愛がっていました。
政治においても藤原忠実は、
弟の藤原頼長を有利な立場にしようとしていた。

そして、以下のような対立が生まれます。

藤原忠通(兄) vs 藤原忠実(父)&藤原頼長(弟)

 

当時、弟の藤原頼長は
「悪左府」と呼ばれ孤立していて、
鳥羽法皇から内覧の権利もはく奪され、
立場が危うい状態でした。

藤原頼長は、崇徳上皇と手を組んで
天皇方である藤原忠通の関白の座を奪い取ろうと考えます。

 

 

保元の乱は夜襲で勝利!

保元物語 (夕陽亭文庫)

保元の乱については、
戦う前から多勢に無勢で
勝敗はついていたといえます。

平清盛率いる300の兵や
源義朝率いる200の兵と
義康率いる100の兵が集っていて
後白河天皇方はすでに体制が整っていました。

 

7月11日未明に、
白河北殿が襲撃されてしまい、夜襲は成功。

あっという間に後白河上皇方の勝利となったのです。

 

 

最後に

保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

この記事では
保元の乱とはどんな戦争だったのかを
なるべくわかりやすく簡単に解説しました。

 

 

 

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