聖徳太子とは、法隆寺を建立したり
十七条の憲法を制定したりなど
約1400年前の日本を変えた人物として有名です。
そんな聖徳太子ですが、
本当は実在していなかったのでは?
という説が浮上しています。
この記事では
本当に聖徳太子は実在したのか?
昔の紙幣の肖像画は別の人だったのか?
聖徳太子の謎や疑問について考察していきます。
聖徳太子は実在しなかった?
聖徳太子といえば、
日本史の教科書に出てきたり
法隆寺を建立した人物として
日本では有名な人物ですよね。
しかし、そんな聖徳太子が
実在していなかったという説は
以下の4つの疑問から生まれています。
- 肖像画は別の人?
- 日本書紀に記載がない
- 十七条の憲法に謎の点
- 推古天皇・摂政は実在しなかった!?
これらの謎について
以下で解説していきます。
聖徳太子の肖像画は別の人?
1930年に乙百円券(10000円札)に
聖徳太子の肖像画が用いられました。
しかし、その紙幣に使われていた
聖徳太子の肖像画が、実は別の人だった
という可能性が出てきたのです。
それは肖像画で聖徳太子が身に着けている
冠や衣服、手に持っているシャクなどが
聖徳太子の生きた時代(飛鳥時代)には
存在しなかったものだと考えられているからです。
また聖徳太子の顔に描かれているヒゲも
後世の人が後から付け足したものだとされています。
日本書紀に聖徳太子の記載がない
聖徳太子は当時
「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と
呼ばれていて、”聖徳太子”という名は
亡くなった後につけられたとされています。
古来の日本のことが書かれている
日本書紀が誕生したときに、
聖徳太子という名称に変更されていて、
現在はその名が有名になっています。
この厩戸皇子が
存在していたことは確認できています。
しかし、厩戸皇子と聖徳太子が
同一人物ではないという説があるのです。
隋書にも日本書紀にも
厩戸皇子のことは一切記載されていないのです。
これは日本書紀の
責任者として編集に関わった藤原不比等が、
厩戸皇子を聖徳太子として作り上げて
善人にしたてあげたのではないかと考えれています。
十七条の憲法に謎の点
聖徳太子が定めた
「十七条の憲法」についても
謎の点があり、疑問視されています。
それは、十七条の憲法の内容です。
具体的には、当時では用いられなかった
後世の考え方などが含まれている点です。
また、十七条の憲法についての記述が
日本書紀にしか残されていないのも不自然とされています。
推古天皇・摂政は実在しなかった!?
驚くべきことに、
推古天皇は実在しなったのではないか
とも考えられています。
隋書によると、
608年に隋史が日本に来日しており、
そのときに出会った王は男性であったとしています。
また推古天皇が王であるとした記述は
聖徳太子に関係した史料にしか存在しません。
もしかしたら推古天皇は実在しておらず、
摂政という官職もなかったのではないでしょうか。
最後に
この記事では
聖徳太子は本当に実在したのか?
昔の紙幣の肖像画は聖徳太子ではなく
別の人なのか?などなど
聖徳太子の謎や疑問について解説しました。
聖徳太子の生きた時代(飛鳥時代)は
今から1000年以上も昔の時代です。
なので歴史資料もない場合が多く
事実とは違う歴史が存在する可能性は高い。
しかし
「聖徳太子が実在しなかった」
という歴史がもし事実なのであれば
日本人のほとんどの方が驚き
歴史の信用が大きく失われることになるでしょう。
なのでもしそれ事実だとしても
大きく公表することはしないかもしれませんね。