聖徳太子の死因は病死ではなく暗殺?誰が犯人なのか?【生涯 (誕生から最期まで) もわかりやすく簡単に解説】

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聖徳太子のお札
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結論からいいますと
聖徳太子の死因は不明です。

そのため、聖徳太子の死因について
感染症による病死説や政治的な暗殺
当時の時代背景などから推測されています。

  • 聖徳太子の誕生日:574年2月7日
  • 聖徳太子の命日:622年4月8日

※聖徳太子の最期の年齢は49歳

 

「聖徳太子の死因は病死」
という考察が一般的には定説です。

しかし、その真実は誰も知りません。

本当に、聖徳太子の死因は病死なのでしょうか?

柴犬

聖徳太子の死因は病死ではなく暗殺?誰が犯人なのか?

 

いつ、聖徳太子は死んだのか?

聖徳太子の死因を考察するとき
その死亡時期がとても重要です。

なぜなら聖徳太子が死亡した時代は
今から約1400年も昔のことなので
死因の記録が残っていないからです。

そのため
聖徳太子の最期の時代(飛鳥時代)の背景や
関わりを持った人についても考察しながら
その死因を推測することが重要となります。

  • 聖徳太子の誕生時期:西暦574年2月7日 (敏達3年1月1日)
  • 聖徳太子の死亡時期:西暦622年4月8日 (推古30年2月22日)

※聖徳太子の最期の年齢は49歳

 

飛鳥時代感染症によって
多くの人が死んだ時代です。

その感染症の名は天然痘 (てんねんとう)
※天然痘の別名は疱瘡 (ほうそう)。顔や体にひどい症状が発生して高い確率で死亡する病気。

聖徳太子の妻である膳大郎女が聖徳太子を看病していたが、聖徳太子が死ぬ前日にこの膳大郎女も死亡したといわれています。

※膳大郎女の読み方:かしわでのおおいらつめ

ただ、一日違いで愛妻が亡くなることは不自然なので、この聖徳太子の病死説を信じない人も多い印象です。

「聖徳太子の死因は天然痘」という説が定説になっていますが、当時の時代背景から考えると暗殺された可能性も十分にあります。

柴犬

もしも聖徳太子の死因が暗殺ならば
誰が聖徳太子を殺したのでしょうか?

それは当時の人にしかわかりませんが
人間関係を考察すると推測ができます。

結論からいいますと
聖徳太子を暗殺してもおかしくないのは
政治的に関係が深かった蘇我馬子です。

当時、聖徳太子の進めた天皇中心の政治に
蘇我氏は疑問を抱いていたとされています。

そして歴史をみてみると
聖徳太子死亡後に蘇我馬子は再び実権を握り
天皇中心から蘇我氏中心に変化させています。

 

聖徳太子の最期は西暦622年4月なので
その時の蘇我馬子の年齢は70歳くらい。

そのためもし犯人が蘇我馬子なら
自分では手を加えずに別の仲間に
暗殺計画を伝える流れが自然です。

 

ちなみに、蘇我馬子の孫「蘇我入鹿(そがのいるか)」は、聖徳太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」を滅ぼしています。

このことから蘇我氏関係者と聖徳太子関係者の間では、さまざまな対立があったことが推測できます。

聖徳太子の死因が暗殺だとしたら、犯人は蘇我馬子かその関係者である可能性が高そうですね。

柴犬

蘇我馬子の死因やその関係者たちの死因などがもし解明されれば、聖徳太子の本当の死因がみえてくるかもしれません💡

柴犬

 

聖徳太子ってどんな人?何をした人?【その生涯 (誕生から最期まで) をわかりやすく簡単に解説】

聖徳太子―法隆寺をたてた政治家 (学習漫画 日本の伝記)

聖徳太子(しょうとくたいし)は
飛鳥時代を生きた政治家です。

 

聖徳太子は仏教を取り入れたり
役人の制度や心得を示すなどし
国の基盤づくりに貢献しました。

 

聖徳太子はどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
聖徳太子の生涯について
わかりやすくに紹介していきます。

聖徳太子の死因を考察する際に、役に立つ情報が盛りだくさんです!

柴犬

  • 聖徳太子の誕生日
  • 政治的な争いが耐えない
  • 聖徳太子と推古天皇
  • 聖徳太子と仏教
  • 聖徳太子と冠位十二階
  • 聖徳太子と十七条憲法(日本初の憲法)
  • 聖徳太子と隋 (当時の中国)
  • 聖徳太子と法隆寺
  • 聖徳太子が死亡する2年前の出来事
  • 聖徳太子の最期

 

聖徳太子の誕生日

聖徳太子は、
574年2月7日に用明天皇の
第二皇子として生まれます。

 

聖徳太子という名前で有名ですが、これは後からつけられた呼び名といわれています。

生存中は「厩戸王(うまやどおう)」と呼ばれていたそうです。

 

政治的な争いが耐えない

587年に用明天皇が亡くなったため、次の天皇の位をめぐって蘇我馬子物部守屋が争います。

聖徳太子は蘇我馬子の軍に加わり、物部守屋を滅ぼします。

 

その後崇峻天皇が即位しますが
崇峻天皇と蘇我馬子は対立します。

そして592年、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺します。

 

聖徳太子と推古天皇

崇峻天皇の死後、
聖徳太子のおばにあたる
推古天皇が即位します。

 

聖徳太子は摂政となり、蘇我馬子とともに推古天皇を補佐します。

その時期に聖徳太子は現在の大阪府に四天王寺を建立します。

 

聖徳太子と仏教

594年、聖徳太子は仏教興隆の詔を出します。

これは、仏教を盛んにして国を安定させることを宣言しています。

聖徳太子は601年頃、現在の奈良県に斑鳩宮を建立しています。

 

聖徳太子と冠位十二階

603年に聖徳太子は冠位十二階を定め、個人の能力により位階を授与し、昇進させ、人材を登用しようとします。

 

聖徳太子と十七条憲法(日本初の憲法)

 

604年、聖徳太子は
日本初の憲法といわれている
十七条憲法」を制定します。

これは豪族たちに
臣下としての心構えを示し、
天皇に従い、仏教を敬うことを強調しています。

 

 

聖徳太子と隋 (当時の中国)

 

聖徳太子の活動は、日本国内だけではありません。

607年、小野妹子遣隋使として中国へ送り、中国の仏教を学ばせました。

それまでの日本の仏教は、
百済や高句麗の朝鮮仏教でしたが
始めて隋 (当時の中国)から仏教を学びます。

また、翌年にも再度小野妹子らを遣隋使として派遣しています。

 

そして聖徳太子は仏教を厚く信仰し
三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したといわれています。

これは日本で最初の仏教の教科書といわれています。

 

聖徳太子と法隆寺

 

そして斑鳩宮のとなりに法隆寺を建立します。

この法隆寺は、670年頃火災に遭い
現存する法隆寺は再建されたものですが
世界最古の木造建築としても有名です。

 

聖徳太子が死亡する2年前の出来事

聖徳太子が死亡する2年前の620年。

聖徳太子は蘇我馬子と協力をし、歴史書「国記」と「天皇記」、「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂しました。

 

聖徳太子の最期

 

622年、聖徳太子は亡くなります。

※享年(聖徳太子の最期の年齢):49歳。

 

重要なので繰り返しますが
聖徳太子の死因については
明らかになっていません。

 

「天然痘」といわれる
当時流行っていた感染症にかかり
聖徳太子は死亡したという説が有力ですが
「暗殺」された可能性も残っています。

 

飛鳥時代は今から約1300年前の時代なので、真相は謎のままです。

 

  • 聖徳太子の誕生時期:西暦574年2月7日 (敏達3年1月1日)
  • 聖徳太子の死亡時期:西暦622年4月8日 (推古30年2月22日)

 

 

 

 

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