聖徳太子ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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聖徳太子のお札
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聖徳太子 本当は何がすごいのか

聖徳太子(しょうとくたいし)は
飛鳥時代を生きた皇族・政治家です。

誕生時期:西暦574年2月7日
死亡時期:西暦622年4月8日

 

まだ日本が国として整っていなかった時代に
聖徳太子は仏教を取り入れたり
役人の制度や心得を示すなどし、
国の基盤づくりに貢献しました。

 

聖徳太子はどんな人なのか?
どんなことをした人なのか?などなど
聖徳太子の生涯について
わかりやすく簡単な言葉で紹介していきます。

 

聖徳太子とは?その生涯をざっくりわかりやすく解説

聖徳太子―法隆寺をたてた政治家 (学習漫画 日本の伝記)

聖徳太子の誕生日

聖徳太子は、
574年2月7日に用明天皇の
第二皇子として生まれます。

聖徳太子という名前で有名ですが、
これは後からつけられた
呼び名といわれています。

生存中は「厩戸王(うまやどおう)」と
呼ばれていたそうです。

 

皇位継承をめぐる争い

587年に用明天皇が亡くなった為
次の天皇の位をめぐって
蘇我馬子物部守屋が争います。

聖徳太子は蘇我馬子の軍に加わり
物部守屋を滅ぼします。

 

その後崇峻天皇が即位しますが、
崇峻天皇と蘇我馬子は対立します。

そして592年、
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺します。

聖徳太子と推古天皇

崇峻天皇の死後、
聖徳太子のおばにあたる
推古天皇が即位します。

 

聖徳太子は摂政となり
蘇我馬子とともに推古天皇を補佐します。

その時期に聖徳太子は、
現在の大阪府に四天王寺を建立します。

 

聖徳太子と仏教

594年、聖徳太子は
仏教興隆の詔を出します。

これは、仏教を盛んにして
国を安定させることを宣言しています。

聖徳太子は601年頃、
現在の奈良県に斑鳩宮を建立しています。

また、603年には冠位十二階を定め、
個人の能力により位階を授与し、
昇進させ、人材を登用しようとします。

 

 

十七条憲法(日本初の憲法)を制定

聖徳太子と憲法十七条

604年、聖徳太子は
日本初の憲法といわれている
十七条憲法」を制定します。

これは豪族たちに
臣下としての心構えを示し、
天皇に従い、仏教を敬うことを強調しています。

 

 

遣隋使「小野妹子」を派遣

小野妹子・毛人・毛野:唐國、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ (ミネルヴァ日本評伝選)

聖徳太子の活動は
日本国内だけではありません。

607年、小野妹子遣隋使として
中国へ送り、中国の仏教を学ばせました。

 

それまでの日本の仏教は、
百済や高句麗の朝鮮仏教でしたが
始めて中国から仏教を学びます。

また、翌年にも再度小野妹子らを
遣隋使として派遣しています。

 

そして聖徳太子は仏教を厚く信仰し
三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を
著したといわれています。

これは日本で最初の仏教の教科書といわれています。

 

聖徳太子、法隆寺を建立

新版 古寺巡礼 奈良1 法隆寺

そして斑鳩宮のとなりに
法隆寺を建立します。

この法隆寺は、670年頃火災に遭い
現存する法隆寺は再建されたものですが
世界最古の木造建築としても有名です。

 

聖徳太子と歴史書

聖徳太子 四天王寺の暗号―痕跡・伝承・地名・由緒が語る歴史の真実

620年、聖徳太子は蘇我馬子と協力をし、
歴史書「国記」と「天皇記」、
「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂しました。

 

聖徳太子の最期

関裕二<古代史の謎>コレクション3 聖徳太子はだれに殺され (関裕二古代史の謎コレクション)

622年、聖徳太子は亡くなります。

享年49歳。

聖徳太子の死因については
明らかになっていません。

「天然痘」といわれる
当時流行っていた感染症にかかり
聖徳太子は死亡したという説が有力ですが
「暗殺」された可能性も残っています。

 

聖徳太子の時代(飛鳥時代)
1000年以上も前のことなので真相は謎のままです。

 

最後に

聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

聖徳太子とはどんな人なのか?
どんなことをした人なのか?
この記事では聖徳太子の生涯について
ざっくりわかりやすく解説していきました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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