佐々木小次郎(ささきこじろう)は
安土桃山時代に誕生し
江戸時代前期までを生きた剣術家です。
誕生時期:1558~1592年
死亡時期:1612年4月13日
宮本武蔵と戦ったとされる
巌流島の決闘はとても有名ですね。
佐々木小次郎とはどんな人だったのか
何をした人なのか、などなど
佐々木小次郎について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
佐々木小次郎ってどんな人?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
佐々木小次郎の誕生日などは不明
佐々木小次郎の誕生日などは不明で
天正もしくは永禄年間(1558~1592年)に
誕生したと推測されています。
佐々木小次郎の生誕場所
については2つ説があります。
一つの説は
豊前国田川郡副田庄(現・福岡県田川郡添田町)の
有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説です。
また熊本藩の豊田景英が編纂した
「二天記」では、誕生した地は
越前国宇坂庄浄教寺村(現・福井県福井市浄教寺町)で
秘剣”燕返し”は福井県にある
一乗滝で身に着けたと記されています。
「燕返し」を創案
中条流富田勢源(とだせいげん)もしくは
富田勢源門下の鐘捲流(かねまきりゅう)の
鐘捲自斎の弟子だったとされています。
戦国時代が終わったころには、
安芸(現・広島)の毛利氏に仕えます。
武者修行のために諸国をめぐり歩いたのち
「燕返し」の剣法を創案します。
燕返しとは、ある方向に打ち込んだ
刀の刃先をすぐに反転させて斬る技です。
ツバメのように素早く身を、
反転させることからきているとされています。
佐々木小次郎、巌流と称する
のちに佐々木小次郎は
岩流(巌流)と呼ばれる流派を創始します。
流名が巌流であることから、
佐々木小次郎は巌流とも呼ばれています。
さらに
豊前小倉藩藩主の細川忠興に仕えて、
小倉藩の剣術師範となります。
佐々木小次郎と宮本武蔵
1612年、佐々木小次郎は
当時29歳の剣豪・宮本武蔵に挑戦します。
このときの佐々木小次郎の年齢は
60歳近くだったそうです。
佐々木小次郎と宮本武蔵は
山口県下関市の「舟島」で決闘します。
小倉碑文には、二人の決闘が
次のように書かれています。
佐々木小次郎は「三尺の白刃」を手にして
決闘を挑み、宮本武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒した
また、この時の宮本武蔵の一撃は
「電光猶ほ遅きが如し」と記されています。
これは電光が遅く思えるほどの速さと表現。
また、宮本武蔵が
戦略で決闘に遅刻したという話も有名ですが
これも碑文に「両雄同時に相会し」とあり
おそらく後の時代の創作と考えられます。
佐々木小次郎と宮本武蔵が決闘をした
「舟島」は「巌流島」と名を改められます。
この勝負はのちに
「巌流島の決闘」と呼ばれ、有名になりました。
佐々木小次郎の最期
1612年4月13日巌流島とも呼ばれる船島で
宮本武蔵との決闘で敗れて
佐々木小次郎は亡くなりました。
即死だったと言われています。
「佐々木」という姓も謎
実は、佐々木小次郎の謎は多くて
”佐々木”という姓も確かではないのです。
宮本武蔵の養子である宮本伊織が記した
小倉碑文においては、佐々木小次郎のことを
「岩流(巌流)」としか書いていないのです。
”佐々木”という記録が残っているのは
宮本武蔵の死後100年以上後の1776年に
作成された「二天記」が初めてです。
他の史料でも”小次郎”という記載のみで
”佐々木”という姓についても謎が残ったままというわけです。
最後に
佐々木小次郎とはどんな人だったのか
何をした人なのか、などなど
佐々木小次郎について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。