ハーグ密使事件とは何か?
どのような事件だったのか?などなど
ハーグ密使事件について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
ハーグ密使事件とは?
ハーグ密使事件とは、1907(明治40)年6月に
ハーグ万国平和会議において
大韓帝国(現在の韓国)が日本による
保護国化無効を外国に訴えた事件です。
1907年に、オランダのハーグで
植民地を持っている強国たちが集まって
戦争をしないように議論をする
第2回万国平和会議が開催されます。
その会議に、韓国の
皇帝高宗(こうそう/コジュン)が密使を派遣して
日本に奪われた外交権の回復を目指したのです。
この密使には、韓国政府の高官である
李相セツ、李儁(りしゅん)、李瑋鍾(りいしょう)の
3名が代表に選ばれます。
オランダのハーグに到着した3名は
平和会議の各国委員会に面会を求めます。
しかしこの密使による韓国側の訴えは
日英同盟、ポーツマス条約などにより、
日本の韓国支配が欧米列強に認められていたため
ロシア、アメリカ、イギリスの代表は
面会すら断り、ハーグ密使の計画は失敗に終わりました。
密使の役目を果たせなかった3名は
抗議行動を起こしたのち、
李儁は割腹自殺したと言われています。
現在も、ハーグの町には
李儁の銅像が建てられているそうです。
ハーグ密使事件による影響
ハーグ密使事件を知った日本では
韓国総監の伊藤博文が皇帝に抗議をし、
皇帝退位問題にまで発展します。
高宗はやむなく退位して長男に譲位しますが
この騒動が韓国の民衆に大きな反響を呼びます。
そして民衆の一部は日本の警官と
衝突し、死者も出る暴動が起こします。
当時の親日派であった
李完用(りかんよう)内閣らは暗殺を恐れて
日本側に保護を求めます。
そして日本は、
日本軍に守られた韓国の官僚に
第3次日韓協約を提示して承認を迫ります。
第3次日韓協約によって
韓国軍は解放させられることとなり、
韓国は外交権だけでなく
軍事権も失うこととなったのです。
そのため韓国軍の一部がゲリラとなって
義兵運動や義兵闘争へとつながります。
この義兵運動を起こした一人である
安重根(あんじゅうこん)によって伊藤博文は暗殺されてしまいます。
ハーグ密使事件の経緯
なぜ、韓国の皇帝高宗は
オランダのハーグ万国平和会議に
「密使」を送ったのでしょうか?
密使とは、言葉の通り
秘”密”の使命を持って派遣される”使”者のこと。
理由は韓国が、第2次日韓協約によって
日本に外交権を奪われていて、
独自に外交を行うことができなかったからです。
その状況を打破するために、高宗は
当時オランダのハーグで開催していた会議に
参加していた日本以外の列強諸国に
韓国の実情を訴え、日本に圧力を
かけてもらおうと画策しました。
最後に
この記事では
ハーグ密使事件について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。