円仁(慈覚大師)ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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円仁 唐代中国への旅 (講談社学術文庫)

 

円仁(えんにん)
平安時代を生きた第3代天台座主です。

誕生時期:794年
死亡時期:864年2月24日

 

天台宗興隆の礎を築き、
日本最初の太師号である
慈覚大師」を授けられました。

 

 

円仁(慈覚大師)とはどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
円仁(慈覚大師)について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。

 

円仁(慈覚大師)とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】

円仁 (人物叢書)

円仁(慈覚大師)の誕生日

794年、円仁(慈覚大師)は
下野国(現・栃木県)壬生町の
壬生寺内で生まれたと言われています。

 

生誕地は壬生町ではなく
美加保ノ関、手洗窪という説もあります。

生誕月日は分かっておらず、
父は豪族壬生氏の壬生首麻呂です。

 

 

円仁(慈覚大師)、大慈寺で修行

兄の秋主からは
儒学を勧められますが
円仁は早くから仏教に心を寄せ、
早くから高僧を約束されているような人でした。

早くに父を亡くし、
母と兄に育てられた円仁は9歳のときに
栃木県の名刹大慈寺の高名な
広智という僧に預けられます。

 

 

円仁(慈覚大師)と最澄

808年、広智に連れられ
比叡山延暦寺に入ります。

 

円仁(慈覚大師)は
唐から帰国したばかりの
最澄の弟子となり、教えを受けることになります。

 

最澄は奈良仏教の反撃と
真言密教の興隆という二重の
障壁の中で天台宗の確立に立ち向かいました。

最澄のもとで円仁は
学問と修行に専念します。

最澄が止観を学ばせた弟子10人のうち
師の代講を任せられるようになったのは
円仁ひとりであったと伝えられています。

 

 

円仁(慈覚大師)の布教活動

円仁(慈覚大師)は814年に
国家試験に合格し、21歳で出家します。

829年~832年の間、
円仁(慈覚大師)は関東・東北地方への巡礼を行います。

 

円仁(慈覚大師)、唐への留学

838年、
円仁(慈覚大師)が45歳のとき、
遣唐船で唐に渡ります。

 

最後の遣唐使として唐に留学し
山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、
中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行します。

 

また、唐での9年間を
入唐求法巡礼行記」全4巻に
まとめて847年に帰国します。

この書は
マルコポーロの「東方見聞録」、
玄奘三蔵の「西遊記」とともに、
三大旅行記として今の時代も高く評価されています。

 

持ち帰った経典は584部802巻に及び
金剛、胎蔵界の両界曼荼羅などの
図像法具は21種もあったそうです。

任明天皇はこの功績によって
円仁(慈覚大師)を「伝燈大法師位」、
「内供奉十禅師」に任命しました。

 

 

円仁(慈覚大師)、第3代天台座主に

その後854年、円仁(慈覚大師)は
それまで17年半、空位であった
延暦寺第3代天台座主に任命されます。

これは勅旨による初の座主任命でした。

それからも円仁(慈覚大師)は
天台密教の振興に尽力し、戒律に新見解を示します。

 

 

円仁の最期(死因)

864年1月、
円仁は熱病にかかり亡くなります。

享年71歳。

866年、
円仁の死を悼んだ清和天皇より
慈覚大師」という日本で
初めての大師号が贈られました。

 

最後に

慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼―最後の遣唐使、日本仏教の礎を築いた最澄の一番弟子・ (ダイヤモンドMOOK)

 

円仁(慈覚大師)とはどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
円仁(慈覚大師)について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

 

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