藤原基経(ふじわらのもとつね)は
平安時代前期を生きた公卿です。
誕生時期:836年
死亡時期:891年2月25日
日本史上初の
関白に就任した人物です。
藤原基経とはどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
藤原基経について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原基経ってどんな人?
藤原基経の誕生日
藤原基経は、836(承和3)年に
中納言、藤原長良の三男として誕生します。
しかし当時の権力者であり
跡継ぎがいなかった藤原良房に
見込まれて、その養嗣子となります。
藤原基経と文徳天皇
852年、東宮で元服する際に
文徳天皇が自ら加冠するほど
気に入られていて、正六位上に叙任。
その後も蔵人、左兵衛少尉、侍従、
左兵衛佐、少納言、左近衛少将、蔵人頭、
播磨介、左近衛中将などを経て
684年に参議に任じられ、公卿となります。
藤原基経と応天門の変
866年、天皇の住まいである応天門が
放火されるという事件が起こります。
この事件に大納言の伴善男(とものよしお)は
「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ」と言い
右大臣の藤原良相(よしみ)に訴えます。
そこで藤原良相は、藤原基経に
源信の逮捕を命じます。
しかしこの流れを怪しいと思った
藤原基経は、養父の藤原良房に告げます。
そして藤原良房の尽力によって、
源信は無罪となります。
その後、密告などがあり
伴善男が真犯人となり、流罪に。
この一連の事件を
「応天門の変」といい、藤原氏は
伴氏などの邪魔者を排除できて
さらに権力を増大することになります。
その後、藤原基経は
中納言、左大将、按察使、
大納言、右大臣と昇進していきます。
藤原基経、陽成天皇の摂政
872年、養父の藤原良房が死去。
876年に陽成天皇が即位しますが、
まだ9歳であった為、藤原基経が
摂政に任じられます。
879年に『日本文徳天皇実録』全10巻を
完成させ、翌年に太政大臣に任ぜられます。
しかし次第に陽成天皇と不仲になり、
陽成天皇を廃位させます。
藤原基経と関白就任
藤原基経は、時康親王を
立てて光孝天皇とします。
しかし、光孝天皇は藤原基経を
はばかって皇太子を定めないまま
887年に亡くなったため、次期天皇も
藤原基経によって決められます。
887年、宇多天皇が即位します。
藤原基経と阿衡事件
宇多天皇即位の直後、藤原基経は
関白の詔を受けますが、その勅書の
一文に怒って出仕を拒みます。
宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ
阿衡とは、中国の故事によるものですが
これを学者が藤原基経に対して
「阿衡とは位が高いが職務を持たない」
と説明しまったのです。
結局、宇多天皇が勅書を取り消して
橘広相を解官せざるをえなくなります。
この阿衡事件によって、藤原基経は
天皇に対する発言力を絶対化したのです。
藤原基経の最期
藤原基経は病に倒れ、
891年2月24日(寛平3年1月13日)に
亡くなります。享年55歳。
最後に
藤原基経とはどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
藤原基経について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。