宇多天皇ってどんな人?何をした人?猫好き?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
宇多天皇(うだてんのう)は
平安時代を生きた
日本の第59代天皇です。
誕生時期:867年6月10日
死亡時期:931年9月3日
宇多天皇が政治の刷新を図った治世を
「寛平(かんぴょう)の治」と呼びます。
宇多天皇とはどんな人か?
猫好きだったのか?などなど
宇多天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
宇多天皇ってどんな人?
宇多天皇の誕生日
宇多天皇は
867年6月10日(定観9年5月5日)に
光孝(こうこう)天皇の第7皇子として生まれます。
母親は桓武天皇の皇子仲野親王の娘の
皇太后班子(はんし/なかこ)女王です。
光孝天皇は比較的遠い血筋から即位した
引け目もあったようで、自分の子どもたちを
ほとんど臣籍に降ろしています。
臣籍とは、皇族以外の国民のこと。
宇多天皇もその中の一人でした。
名前を源定省(みなもとのさだみ)といい、
小さいときは臣下として過ごします。
宇多天皇の即位
887年、父の光孝天皇の病気が重くなり
太政大臣の藤原基経が源定省を皇太子とします。
そして同年に光孝天皇が亡くなると
宇多天皇が即位します。
一回、皇族以外の身分に降ろされて
皇族に戻って即位したというわけです。
宇多天皇と藤原基経
即位した宇多天皇は、引き続き
藤原基経に執務をこなしてもらおうと
左大臣橘広相(ひろみ)に命じて、
藤原基経に勅書を送ります。
宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ
これに腹を立てた藤原基経は
出仕を拒んで自宅に引きこもります。
なぜ怒ったかというと、学者が藤原基経に
「阿衡とは地位は高いが職務を持たないこと」
と説明してしまったからだそうです。
結局、宇多天皇が勅書を取り消して
橘広相を解官せざるを得なかったとか。
宇多天皇は親政を行うつもりでしたが、
この阿衡事件が起きたことによって
藤原基経に譲歩せざるをえなかったようです。
宇多天皇の寛平の治
藤原基経の死後、宇多天皇は親政を開始。
藤原保則(やすのり)や菅原道真を登用して
政治の刷新に務めます。
宇多天皇が行った政治は、のちに
「寛平の治」と呼ばれます。
宇多天皇の譲位
897年、宇多天皇は自身の
第1皇子である淳仁親王に譲位します。
淳仁親王とは醍醐天皇のこと。
醍醐天皇は宇多天皇のアドバイスを受け
藤原時平を左大臣にし、菅原道真を右大臣に。
「延喜の治」と呼ばれる善政を行います。
宇多天皇はその後出家をし、
はじめて「法皇」を称したと言われています。
宇多天皇の最期
宇多天皇は
931年9月3日(承平元年9月5日)に
亡くなります。享年64歳。
宇多天皇は猫好きだった?
宇多天皇は、自身の日記である
『寛平御記』に、猫のことを書いています。
猫を手に入れるまでの経緯や、
その黒猫をがいかに美しく
素晴らしいかを長文で記しています。
しかし、その猫を可愛がっているのは
「可愛いからとかではなく先帝に賜ったから
大切にしているのだ」とも記しています。
素直でないところが、面白いですよね。
最後に
宇多天皇とはどんな人か?
猫好きだったのか?などなど
宇多天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。