藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は
奈良時代を生きた公卿です。
※公卿(くぎょう):日本の役人の最高幹部
誕生時期:737年
死亡時期:785年11月4日
桓武天皇の即位以降、
藤原種継は昇進しますが
最後は暗殺されてしまいます。
※昇進(しょうしん):地位があがって行くこと
藤原種継とはどんな人なのか?
藤原種継の死因についても触れながら
藤原種継について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原種継ってどんな人?
- 藤原種継の誕生日
- 藤原種継の昇進
- 藤原種継と桓武天皇
- 藤原種継と長岡京
- 藤原種継の最期
藤原種継の誕生日
藤原種継は、737(天平9)年に
藤原清成の子どもとして誕生します。
※藤原種継の具体的な誕生日は不明です。
藤原種継は、藤原不比等の子どもである
藤原四兄弟の一人、藤原宇合の孫にあたります。
つまり藤原種継は、藤原不比等のひ孫です。
藤原種継の昇進
藤原種継に関しての記述は、
続日本記だと766年に従六位上から
従五位下への昇進が初出です。
また2年後には美作守に任ぜられます。
藤原種継と桓武天皇
781年、桓武天皇が即位します。
藤原種継は桓武天皇からの信任厚く、
それ以降急速に昇進をしていきます。
桓武天皇即位の翌年には参議に任ぜられ
公卿となり、従三位、中納言に。
そして784年には先任の中納言であった
大伴家持を出し抜いて正三位となります。
藤原種継と長岡京
784年、桓武天皇は
平城京からの遷都を計画します。
桓武天皇は、都の遷都について
藤原種継にほとんどのことを任せたそうです。
そして藤原種継は現在の京都府向日市、
長岡京市、西京区周辺の地へ長岡京を
造営することを提案して、実行します。
このとき藤原種継は造営使として
事実上、長岡京遷都の責任者でした。
藤原種継の最期
785年10月31日(延暦4年9月23日)、
藤原種継は暗殺されて亡くなります。享年48歳。
藤原種継の暗殺事件について
藤原種継の暗殺事件について
事件の概要と、事件の後に起きた
奇妙な物語についても情報を公開していきます。
- 事件の概要
- 早良親王の島流し
- 早良親王の恩霊
事件の概要【藤原種継の暗殺事件について】
平城京から長岡京へ都を移してから
まだ間もない785年10月31日の夜、
藤原種継は長岡京の見廻り最中に
何者かに矢で射られてしまいます。
そして翌日に、怪我が原因で死去。
暗殺犯は大伴竹良であると判明、
取り調べの末十数名が関与しているとし
全員捕縛されて斬首となります。
また事件直前の8月28日に
死去した大伴家持が首謀者ということで
処理されたそうです。
彼らは長岡京への遷都に
反対だった人々と考えられています。
早良親王の島流し【藤原種継の暗殺事件について】
しかし、それだけでは終わりません。
事件は桓武天皇の弟で皇太子だった
早良(さわら)親王も関与しているとなって
皇太子の廃止、島流しにまで発展します。
この処罰が不服だった早良親王は
無実を伝えるために絶食し、島流しの
最中に憤慨しながら亡くなったそうです。
実際に早良親王が藤原種継暗殺事件に
関わっていたかは定かではないですが
桓武天皇と早良親王は
あまり仲が良くなかったようです。
早良親王の恩霊【藤原種継の暗殺事件後】
早良親王の死後、桓武天皇の
近親者が次々と不幸に襲われたり
自然災害や飢饉などに見舞われます。
これらの災難が、早良親王の恩霊
であると恐れられるように。
長岡京がわずか10年で平安京へ
遷ったのは、この一連の事件が
原因のひとつになったと言われています。
最後に
藤原種継とはどんな人なのか?
藤原種継の暗殺についても触れながら
藤原種継について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。