後三条天皇ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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後三条天皇―中世の基礎を築いた君主 (日本史リブレット人)

 

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)とは
平安時代第71代天皇です。

誕生時期:1032年9月3日
死亡時期:1073年6月15日

 

 

170年続いた藤原摂関家を断ち切り、
天皇自身で政治を執行しました。

 

後三条天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
後三条天皇について
なるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

後三条天皇ってどんな人?

後三条天皇の誕生日

後三条天皇(ごさんじょう てんのう)は
1034年9月3日(長元7年7月18日)
後朱雀天皇の第二皇子として生まれます。

 

本名は尊仁(たかひと)皇子です。

 

異母兄である後冷泉(ごれいぜい)天皇の即位に
伴って、尊仁皇子(後三条天皇)は
12歳で皇太子(弟)となります。

※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。

 

後三条天皇と藤原頼通

尊仁皇子(後三条天皇)の母である
禎子(ていし)内親王三条天皇の娘で、
藤原道長の孫にもあたります。

しかし既に藤原道長は亡くなり、尊仁皇子は
その息子の藤原頼通(よりみち)と不仲でした。

 

そのため、当時関白であった藤原頼通と
その弟の藤原教通らに疎んじられていました。

逆に、彼らの異母弟であり対立もしていた
藤原能信(よしのぶ)からは支援を受けます。

 

後三条天皇の即位

1068年、後冷泉天皇が病死し、
後三条天皇は即位します。

藤原頼通は政界を引退します。

 

上東門院彰子の推薦もあり、不仲な
藤原教通を関白にはしていましたが
自ら政治を行います(親政)。

 

後三条天皇は、自分を支援してくれた
藤原能信の養子(藤原能長)だけでなく
これまで政治の中枢にはいなかった
多くの人々を登用します。

  • 学者の大江匡房(まさふさ)
  • 貴族の藤原実政(さねまさ)
  • 村上源氏の源師房(もろふさ)
  • 村上源氏の源経長(つねなが)

若い頃から聡明で才能に優れていた
後三条天皇は、これまで藤原頼通に
遠慮して後三条天皇をないがしろに
していた者に対しても、公正な態度を示します。

 

後三条天皇による延久の善政

1069年、後三条天皇が
荘園整理令を出します。

これまでも後醍醐天皇から何度も
荘園整理令は出されていましたが、
後三条天皇は徹底して本格的に行います。

 

摂関家をはじめとする有力貴族や
大寺院の不正荘園などを没収して、
他の公家や農民たちに回したのです。

この後三条天皇によるものは、
延久の荘園整理令と呼ばれています。

 

また、後三条天皇の有名な改革に
延久の宣旨枡」があります。

それまでは米の取引などで使っていた
枡の大きさがまちまちであった為、
しばしば争いのもととなっていたのです。

 

後三条天皇がさだめた枡の規格が
「延久の宣旨枡」で、これによって
米の取引、年貢の徴収がうまくいきました。

 

後三条天皇による政治は
延久の善政」と評価されています。

 

後三条天皇の最期

後三条天皇は1072年に病で倒れ、
第一皇子の貞仁親王(白河天皇)に譲位。

 

そして後三条天皇は、その翌年の
1073年6月15日(延久5年5月7日)
病で亡くなります。享年40歳。

 

最後に

後三条天皇―中世の基礎を築いた君主 (日本史リブレット人)

 

後三条天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
後三条天皇について
なるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

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