白河天皇ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
白河天皇(しらかわてんのう)とは
平安時代の第72代天皇です。
誕生時期:1052年
死亡時期:1129年
白河天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
白河天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
白河天皇ってどんな人?
白河天皇の誕生日
白河天皇(しらかわ てんのう)は
1053年7月7日(天喜元年6月19日)に
後三条天皇と藤原茂子との
第一皇子として誕生します。
本名は貞仁(さだひと)皇子です。
13歳で元服し、18歳になると
父の後三条天皇から譲位されます。
白河天皇の即位
1072年、白河天皇が即位します。
当初は、異母弟の実仁親王を
皇太子としますが、早くして亡くなります。
※皇太子=次期天皇候補の第一順位の人。
その為白河天皇は、自分の子どもの
善仁(たるひと)親王(のちの堀河天皇)を
皇太子と定めます。
そして、まだ8歳であったにも関わらず、
白河天皇は堀川上皇に譲位したのです。
白河天皇は自らの血筋を、正式な
天皇家の血統にしようと考えたのでしょう。
白河天皇の院政
さすがに、まだ幼い堀河天皇に
政治はできないので、父である白河天皇が
上皇となり政治の実権を握ります。
このように
上皇が政治を行うことを院政と呼び
その後100年に続く院政期が始まるのです。
白河天皇と出家(法皇)
成長した堀河天皇は、
外戚にあたる藤原師道(もろみち)を
関白として、政治を行います。
藤原師道は、白河上皇の政治介入を
良く思っておらず対立しますが、白河上皇も
堀川天皇の後見を果たしたということで
出家し、白河法皇となります。
白河天皇と鳥羽天皇
しかし1099年、藤原師道が急死します。
さらに若くして堀川天皇も亡くなり、
堀川天皇の子どもである鳥羽天皇が即位します。
鳥羽天皇は白河法皇の孫にあたりますが
まだ5歳だったので白河法皇が再び院政を行います。
白河法皇と永久の変
1113年、永久の変が起こります。
これは、白河法皇の異母弟である
輔仁(すけひと)親王を天皇に擁していた
公家たちが、鳥羽天皇暗殺未遂事件を起こします。
もともと後三条天皇は実仁親王の即位後に、
輔仁親王を天皇にすることを遺言としていました。
しかし、白河天皇はこれを無視して、
自分の子どもの堀河天皇を即位させて
さらに孫の鳥羽天皇を即位させていたのです。
これに対して、一部の公家達は不満があったのです。
この事件に巻き込まれた輔仁親王は
皇位継承の可能性がなくなり、家で謹慎します。
白河天皇と崇徳天皇
輔仁親王とその味方公家たちも排除し、
白河法皇は政治的権限を掌握します。
その後さらにひ孫にあたる
崇徳天皇の代でも院政を行います。
白河法皇の院政は43年間も続いたのです。
白河天皇の最期
白河法皇は
1129年7月24日(大治4年7月7日)に亡くなります。享年77歳。
最後に
白河天皇とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
白河天皇について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。