北条早雲ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】
北条早雲(ほうじょう そううん)は
室町時代中期を生きた戦国武将です。
誕生時期:1432年
死亡時期:1519年9月8日
戦国大名となった後北条氏の祖で、
伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれます。
北条早雲とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
北条早雲について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
目次
北条早雲の生涯をざっくり解説
北条早雲の誕生日
北条早雲(ほうじょう そううん)は、
伊勢盛定(いせもりさだ)と伊勢貞国の娘の
子ども(次男)として誕生したとされています。
北条早雲の具体的な誕生日は不明で
1432年(永享4年)または1456年(康正2年)に
誕生したのではないかと考えられています。
北条早雲の出身地に関しても、
詳しい場所は明らかになっておらず
伊勢、京、備中などの説があります。
- 伊勢の場所:三重県
- 京の場所:京都府
- 備中の場所:岡山県
北条早雲の当時の名前
歴史上では「北条早雲」と呼ばれますが
当時はそういった名で呼ばれていません。
”北条”の姓を名乗り始めたのは
北条早雲の子どもからだとされています。
北条早雲自身は”伊勢盛時(いせもりとき)”または
”伊勢新九郎”と名乗っていたと考えられています。
北条早雲と今川義忠
長男は若くして亡くなったのか、
次男である北条早雲が
跡継ぎとされていたようです。
1467年に応仁の乱が起きると
駿河(静岡県)守護であった
今川義忠(よしただ)は1000騎を率いて
上洛して、東軍に属します。
※上洛(じょうらく):京都へいくこと
北条早雲の父である伊勢盛定は、
今川義忠と親交があったようで
北条早雲の姉である北川殿を正室(妻)として嫁がせています。
北条早雲と今川氏
1476年、同じ東軍であった斯波義廉の
家臣に襲われて今川義忠が亡くなります。
今川義忠の突然の死によって、
今川家では家督争いが起こります。
北条早雲は父の代理として駿河へ向かい、
今川家の家督相続の調停に成功します。
※駿河の場所:静岡県
このことが、北条早雲と今川家の
絆をより深めることとなり、のちの
北条早雲の関東進出へのきっかけとなったそうです。
北条早雲と興国寺城主
しかし、家督相続の約束を破った為、
北条早雲は1487年に兵を起こして
駿河館を襲撃し、小鹿範満らを滅ぼします。
この功績によって、北条早雲は
今川家当主となり、伊豆との国境に近い
興国寺城(沼津市)に所領を与えられます。
城主となった北条早雲は、
勢力を伸ばして伊豆へと進出します。
※伊豆の場所:静岡県
北条早雲と伊豆進出
1491年、北条早雲は
堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知の遺児
茶々丸を攻めて敗死させて伊豆を領します。
伊豆の地に
韮山城(にらやまじょう)を築いて独立します。
北条早雲と相模制圧
北条早雲はさらに相模へ進出します。
※相模の場所:神奈川県
1495年には、相模小田原城主である
大森藤頼を追い出して小田原城を奪います。
北条早雲の勢いは止まりません。
1512年相模岡崎城の三浦義同(よしあつ)を破り、
1516年には三浦氏を滅ぼします。
相模を手中に収め、
5代に続く後北条氏の基礎を築きます。
北条早雲の最期
北条早雲は
1519年9月8日(永正16年8月15日)に
亡くなります。享年64または88歳。
北条早雲は、領国支配の強化を
積極的に進めた最初といえる大名であり、
その点では戦国大名の先駆けと評価されています。
最後に
北条早雲とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
北条早雲について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。