江戸時代末期である幕末期には
幕府と多くの志士たちによる
戦いや騒動が起こりました。
その中でも長州藩が幕府勢力と
戦った禁門の変は日本の歴史に
大きな影響を与えた戦いの一つです。
禁門の変とは何か?
どんな戦いだったのか?などなど
禁門の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
「禁門の変」とは?
まずは、簡単に
禁門の変について
わかりやすく解説していきます。
禁門の変とは
1864年8月20日(元治元年7月19日)に
長州藩の兵と江戸幕府との
京都御所付近における戦闘のことです。
元治元年に京都の蛤御門付近で戦った為、
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)または
元治の変(げんじのへん)とも呼ばれています。
天皇を尊ぶ「尊王」論と、
外国を打ち払う「攘夷」論を合わせた
尊王攘夷の思想を持っていた長州藩が
江戸幕府に不満を持ち、京都守護職の
追放を掲げて京都に出兵したのです。
一方で、幕府を支持していた
公武合体派の薩摩藩と会津藩が
幕府からの命令で、その長州藩を
追放する為に戦ったのが禁門の変です。
応仁の乱以来の戦火が京都に広がり、
その被害は、鎮圧までに3日を要し
京都市中の約3万戸が焼かれたそうです。
結果は、薩摩藩兵の来襲により
多くの長州藩士が戦死し、
長州藩が撤退します。
「禁門の変」の経緯
1862年以来、長州藩は
攘夷主義を掲げて朝廷に支配的
影響力を持っていました。
しかし、1862年に起きた
八月十八日の政変によって
薩摩藩兵に追われて、長州藩は
京都追われて失脚します。
京都を追われた長州藩でしたが、
その後も勢力回復を図り、ある計画を立てます。
彼らの計画は、京都に火を放ち
混乱している中で公武合体派の公家である
中川宮を幽閉、会津藩主の松平容保を殺害、
そして天皇を長州に連れ帰るというものでした。
その計画を察知した新撰組は
京都市中を捜索して、尊王攘夷志士たちが
池田屋旅館で会談することを突き止めます。
そうして多くの長州藩士たちが、
池田屋事件によって殺害、逮捕されます。
この事件に憤慨した長州藩士たちは
ついに京都への出兵を決意しました。
長州藩はなぜ「朝敵」になった?【禁門の変】
この禁門の変によって、
長州藩は朝廷の敵「朝敵」と
認定されてしまいます。
禁門の変で敗れた長州藩に対し、
幕府はさらに追い打ちをかけます。
御所に向けて発砲したことなどを理由に
朝廷から「長州追討」の勅許を賜ります。
幕府から長州征伐を宣言され、
長州藩は四方八方が敵になる事態に陥いってしまうのです。
最後に
この記事では禁門の変について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでも役に立てば幸いです。