水野忠邦ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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水野忠邦天保改革老中日記 (第11巻)

 

水野忠邦(みずのただくに)
江戸時代後期を生きた大名、老中です。

誕生時期:1794年7月19日
死亡時期:1851年3月12日

 

水野忠邦とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
水野忠邦について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

水野忠邦ってどんな人?

週刊 日本の100人 No.089 水野忠邦 2007/10/23

水野忠邦の誕生日

水野忠邦(みずの ただくに)は
1794年7月19日(寛政6年6月23日)
唐津(現在の佐賀県)第3代藩主である
水野忠光次男として誕生します。

 

長男が幼くして亡くなった為、
1807年に第11代将軍の徳川家斉
御目見えし、従五位下に任ぜられます。

1812年、18歳の水野忠邦は家督を相続します。

 

水野忠邦と賄賂

水野忠邦は、幕府の中心で
出世することを熱望したそうです。

そこで、多額の費用を使っての
猟官運動…今でいう賄賂(わいろ)を送って
1816年に奏者番に昇格します。

唐津藩には、近くにある
長崎の警護役という任務がありました。

唐津藩では金はたまりますが、
それ以上の出世が見込めないと考えた
水野忠邦は、同じ石高かつ出世コースで
あった浜松(静岡県)藩への移封を計画します。

 

水野忠邦と老中首座

計画通り浜松藩への国替えに成功、
寺社奉行や大坂城代をつとめたのちに
1834年には念願の老中に就任します。

このとき水野忠邦40歳です。

 

そして1839年には老中首座となり、
政治の最高責任者へと昇りつめたのです。

 

水野忠邦による天保の改革

1841年、大御所として政治の実権を
握っていた徳川家斉が亡くなります。

12代将軍の徳川家慶から信頼されていた
水野忠邦は、徳川家斉の側近たちを
解雇にして、幕政改革を行います。

 

江戸時代の三大改革の一つである
天保の改革を行ったのです。

天保の改革の主な政策はこちら。

  • 倹約令
  • 株仲間の解散
  • 人返し令

これらの政策について簡単に解説します。

倹約令

倹約令では、質素・倹約を奨励して
物価の引き下げを図ります。

 

株仲間の解散

田沼意次の時代に奨励された
株仲間を解散させて、物価高騰を
おさえようとします。

しかし株仲間を解散させたことで
かえって経済は混乱し、品物が不足、
物価が安定することはありませんでした。

 

人返し令

農村の再興を図って、農村から
江戸への出稼ぎを禁止します。

さらに江戸に出ている農民を村に
帰らせようとしたのが「人返し令」ですが
あまりうまくいきませんでした。

 

水野忠邦の上知令

さらに、1843年に水野忠邦が
幕府の権力を高めるために
上知令(あげちれい)」を断行しようとします。

これは、江戸や大阪周辺の大名や旗本に
土地を差し出すことを命じた法令です。

かわりに、当時の大名たちの領地は
バラバラであったので、まとめた
領地を与えるという条件のものです。

 

しかし、大名たちの猛反発により、
この上知令は実施できずに終わります。

 

水野忠邦、老中失脚

1843年に、水野忠邦は
老中を罷免させられたのです(失脚)。

失脚直後は、暴走した江戸市民らに
自宅を襲撃されたとも伝わっています。

 

その後、もう一度老中に再就任しますが、
幕府からの信頼を得ることができずに
わずか1年で再辞職します。

さらに、在職中に受け取った賄賂を理由に
2万石を没収されて、強制隠居、謹慎させられます。

 

水野忠邦の最期

水野忠邦は
1851年3月12日(嘉永4年2月10日)
亡くなります。享年58歳。

 

最後に

週刊 日本の100人 No.089 水野忠邦 2007/10/23

 

水野忠邦とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
水野忠邦について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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