幕末期に起こった戊辰戦争では
いくつもの悲劇がありました。
会津藩の白虎隊が有名ですが、
さらに幼い子たちが兵士として戦った
二本松少年隊をご存知ですか?
二本松少年隊とは何か?
戊辰戦争での悲劇などなど
二本松少年隊について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
二本松少年隊とは?
二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは
幕末の二本松藩において戊辰戦争に
出陣した12歳から17歳で編成された
少年兵隊部隊のことです。
しかし当時は隊に名前はなく、
戊辰戦争没者五十回忌に刊行された
「二本松戊辰少年隊記」から
その名前が名付けられたのです。
特殊な制度で編成された二本松少年隊
二本松藩とは現在の
福島県二本松市に存在した藩であり、
二本松城が居城とされていました。
本来、戦争への出陣は
12歳や13歳は不可能でしたが、二本松藩には
”入れ年”という制度がありました。
これは、年齢を2つ足して
14歳になれば出陣できるという
独自の制度で、そのため12歳という
最年少の兵隊が誕生したのです。
二本松少年隊の戊辰戦争での悲劇
二本松隊と戊辰戦争
戊辰戦争の二本松の戦いでは、数多くの
若い少年たちが新政府軍と戦います。
その中で特に有名なのが
二本松藩砲術師範、木村貫治の教え子の
少年たちで編成され、息子である
木村銃太郎が率いる25名の少年隊です。
彼らは鉄砲隊として新政府軍が侵攻する
ルートの真正面を陣取って攻撃をしかけます。
しかし、最新式の武器を用いる新政府軍に
対し、旧式の武器で戦う二本松少年隊は
次第に一人、また一人と倒れていきます。
さらに隊長の木村銃太郎が重傷を負い、
城へ戻ることはできないと悟った彼は
副隊長に自分の首を刎ねろと命じます。
人の首を刎ねたことなどない副隊長ですが
断腸の思いで隊長の首を刎ねたそうです。
少年たちは泣き叫びながら
隊長の体を埋葬し、隊長の首を持って
二本松城へ向かいます。
その後少年たちは
二本松城下に侵攻した新政府軍と
死闘を繰り広げ、次々と倒れていきます。
城が炎に包まれる中、それでも
二本松少年隊は果敢に戦い続けたそうです。
岡山篤次郎【二本松少年隊】
少年の一人、数え年13歳の岡山篤次郎は
新政府軍の銃弾を受けて重症となりますが、
あまりの幼さに薩摩藩隊長の手で病院に運ばれます。
岡山篤次郎は昏睡状態の中でも
「鉄砲を持ち来たれ」とうめき続けたそうです。
二本松少年隊の最期
1890年に作られた「戦死姓名簿」だと
二本松藩の戦死者は337名、負傷者は
71名にものぼりました。
戦死者の中には14名の少年も含まれます。
ふるさとを懸命に守ろうとした
健気な子供たちの悲劇は、後世にまで名を残すこととなったのです。
最後に
この記事では
二本松少年隊とは何か?
戊辰戦争での悲劇についてなどなど
二本松少年隊について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。