二宮金次郎の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
二宮金次郎の死因は病死です。
- 二宮金次郎の誕生日:1787年9月4日
- 二宮金次郎の命日:1856年11月17日
※二宮金次郎の最期(最後)の年齢は69歳
目次
二宮金次郎はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
二宮金次郎(にのみやきんじろう)は
江戸時代後期を生きた思想家です。
※経世家、農政家でもあります。
- 二宮金次郎の誕生日:1787年9月4日
- 二宮金次郎の命日:1856年11月17日
※二宮金次郎の最期の年齢は69歳
別名で二宮尊徳の名前でも知られており、
全国の多く学校に銅像が建てられています。
二宮金次郎はどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
二宮金次郎の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
二宮金次郎の死因考察にぜひお役立てください💡
柴犬
二宮金次郎の誕生日
二宮金次郎(にのみや きんじろう)は
1787年9月4日(天明7年7月23日)に
相模国(現在の神奈川県)で裕福な百姓の
二宮利右衛門の長男として生まれます。
「尊徳」という名前は、
亡くなってからつけられた名前で
正式には”たかのり”と読みますが、
”そんとく”と読むことが多いです。
また、本来は「金治郎」という字ですが
「金次郎」とされることが多いようです。
二宮金次郎の幼少時代
二宮金次郎が5歳のときに起きた
川の氾濫で田畑と家を失います。
数年かけて復旧させますが、
借金を抱えて家計は苦しくなったそうです。
さらに14歳で父が、16歳で母が亡くなり、祖父(伯父)の家に身を寄せます。
二宮金次郎は薪を町へ売りに行く道中で、
薪を背負って歩きながらも本を読んで勉強したと言われています。
この姿は、二宮金次郎の銅像の恰好としても有名ですよね。
二宮金次郎の再興
その後も一生懸命働いた二宮金次郎は
20歳の頃に家の再興に取り掛かります。
家を修復して、田畑を買い戻し、
一部を貸し出すなどして収入を得ます。
31歳のときには田畑4町歩を持つ大地主となり
貧しい農民には無利子で金を貸したそうです。
二宮金次郎と村の救済
1818年、小田原(神奈川県)藩家老
服部家の家政改革を託されます。
二宮金次郎は、破綻寸前であった服部家を
わずか4年で再建させたと言われています。
その後も多くの家や村の救済、再興を行い
生涯で600もの村の立て直しに成功したそうです。
1842年の56歳のときには
天保の改革を行っていた幕府に登用されています。
二宮金次郎の最期
二宮金次郎は江戸時代の後半頃の
1856年11月17日(安政3年10月20日)に
現在の栃木県日光市で病死します。享年69歳。
二宮金次郎の死因は病死です。
- 二宮金次郎の誕生日:1787年9月4日
- 二宮金次郎の命日:1856年11月17日
※二宮金次郎の最期(最後)の年齢は69歳
二宮金次郎の銅像について
二宮金次郎の銅像が最初に
造られたのは1910年(明治43年)、
彫刻家の岡崎雪聲(おかざきせっせい)という人が
作った銅像とされています。
この銅像は、現在は
明治天皇が気に入ってお買い上げ、
明治神宮宝物殿に展示されています。
そして1924年(大正13年)には、
愛知県豊橋市の前芝小学校で、
二宮金次郎の銅像が造られました。
これは小学校で初めて置かれた銅像だそうです。
その後、1928年(昭和3年)に昭和天皇即位の
即位式「御大禮記念」の記念事業として、
兵庫県神戸市会議員が全国83か所の
小学校へ二宮金次郎像を寄付します。
それ以後、銅器生産日本一である
富山県高岡市の鋳造メーカーが商売の
好機と考えて、二宮金次郎像を全国の
小学校の産業のために発展させたと言われています。