尾形光琳(おがたこうりん)は
江戸時代を生きた画家、工芸家です。
誕生時期:1658年
死亡時期:1716年7月20日
尾形光琳とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
尾形光琳について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
尾形光琳ってどんな人?
尾形光琳の誕生日
尾形光琳は1658年(万治元年)に
京都の呉服商の当主である
尾形宗謙の次男として誕生します。
※尾形光琳の具体的な誕生日は不明です。
本名は尾形方祝(まさとき)で、
5歳年下の弟には京焼の名手である
尾形乾山(おがたけんざん)がいます。
尾形光琳と借金
1687年に父が他界して、
多額の財産を手に入れます。
しかし、金遣いの荒い尾形光琳は
お金を湯水のごとく使ったそうです。
金の返済に困り、弟に金を借りに行く
始末だったそうで、破産もしています。
尾形光琳の浪費癖は直らず、
その後も何度か借金をしていたようです。
尾形光琳と大和絵画風
尾形光琳が絵を描き始めたのは
40代の頃といわれています。
金に困っていたのと、妻や恋人たちへの
見栄(プライド)が一因とされています。
狩野派の山本素軒に画法を学びます。
その後、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や
俵屋宗達(たわらやそうたつ)、野々村仁清の遺した
作風を受けて、画面の豊かな装飾性を
特色とした独自の大和絵画風を確立します。
尾形光琳と尾形乾山
また、弟の尾形乾山の焼き物に
尾形光琳が絵を描くという、
兄弟の共同作業も行っています。
尾形光琳は、蒔絵(まきえ)、茶器、
小袖(こそで)の下絵など様々な品に
美しい絵付けを行い、傑作を残したのです。
尾形光琳の最期
尾形光琳は
1716年7月20日(享保元年6月2日)に
亡くなります。享年58歳。
尾形光琳の代表作品
ここでは
尾形光琳の代表作品を
紹介していきます。
- 燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)
- 紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)
これらの作品について
以下で簡単に解説します。
燕子花図屏風【尾形光琳の代表作品】
『燕子花(かきつばた)図屏風』は
尾形光琳初期の傑作です。
この作品は、平安時代に成立した
著者不明の『伊勢物語』の第九段
「八橋」の場面を描いています。
8つの燕子花の群れがリズミカルな
位置に描かれていて、金、緑青、群青の
はっきりした色彩効果をテーマとしています。
当時の絵画としては
きわめて斬新なデザインであり、
琳派(りんぱ)という江戸時代を
代表する流派を確立します。
『燕子花図屏風』は国宝で、
現在は根津美術館に保管されています。
紅白梅図屏風【尾形光琳の代表作品】
『紅白梅図屏風』は
尾形光琳の晩年期の傑作です。
今までは、作品の大部分を占める
金色の部分は金箔であるとされていました。
しかし近年の研究結果だと
金泥を用いて金箔に見せていて、
金箔が重なり合う部分の箔足を加えて
描いたものである説が有力となっています。
現在は国宝に指定されており
MOA美術館に保管されています。
最後に
この記事では
尾形光琳と代表作品について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもお役に立てば幸いです。