結論からいいますと
坂本龍馬の死因は暗殺です。
- 坂本龍馬の誕生日:1836年1月3日
- 坂本龍馬の命日:1867年12月10日
※坂本龍馬の最期(最後)の年齢は31歳
慶応3年11月15日(1867年12月10日)に
坂本龍馬は何者かによって暗殺されました。
坂本龍馬が暗殺された日、坂本龍馬と一緒にいた中岡慎太郎や山田藤吉も暗殺されています。
坂本龍馬を暗殺した犯人については
諸説あり真実は謎のままとなっています。
坂本龍馬が暗殺された場所は
京都の河原町近江屋の母屋2階。
坂本龍馬は多方に敵が多く、犯人と思われる組織がいくつも存在していました。
暗殺された坂本龍馬は、どのように
その最後(最期)を迎えたのでしょうか?
以下では、坂本龍馬の最期(最後)について
遺体や死後の坂本龍馬の脳の状態などから考察し
様々な人の証言からその謎をひも解いていきます。
坂本龍馬の最期(最後)について【脳をやられた?】
坂本龍馬は、まず額を横に斬られます。
抵抗しようと、後ろの床の間に置いていた
刀を取ろうとした際に、背中を斬られます。
龍馬は刀を手にして振り返った時に
鞘ごと相手の太刀を受け止めました。
しかし恐らく血で滑ったようで、
相手の刀はそのまま龍馬の脳天を
叩き切って脳漿が飛び散ったとされています。
※脳漿(のうしょう)=脳の内部の空間を満たす液。
この太刀を受け止めた鞘(さや)は18㎝、
刃は9㎝も削れていたとことから考察するに
坂本龍馬は最後に強烈な一撃を受けたことになります。
谷干城の証言「脳をやられた」【坂本龍馬の最期(最後)】
坂本龍馬のことを厚く尊敬していた
土佐藩の谷干城(たに たてき)は、
2日間だけ存命した中岡慎太郎の証言に
基づいて次のように述べています。
↓
坂本は非常に大きな傷を負っており
額のところを5寸ほどやられているから
この一刀で倒されたのであろうが、
後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。刺客は2人でコナクソと話した。
龍馬は「石川(中岡の偽名)刀はないか?
刀はないか?」と話し、階段まで這って
「脳をやられた。もういかん。」と言って絶命した。刺客は龍馬と中岡が倒れたのを確認し
「もうよい。もうよい。」と言い、引き上げた。※コナクソとは、伊予弁(愛媛県の方言)ではないかと考えられています。
坂本龍馬は、額に刀を深く斬りこまれ
その他にも数か所の傷を負わされ
ほぼ即死に近い状態だったようです。
坂本龍馬の遺体【坂本龍馬の最期(最後)】
また、谷干城(たに たてき)は、
坂本龍馬の遺体見分もしています。
※遺体見分とは、簡単にいうと「遺体の調査」のことです。
坂本龍馬の額は、横に15㎝ほど斬られていたと証言しています。
中岡慎太郎の証言にある、
坂本龍馬の「脳をやられた」という発言と
遺体見分をした谷干城の証言からも
頭部の損傷が直接の死因と考えられます。
「土佐坂本龍馬伝」によると
坂本龍馬の最期の様子について
以下のように記されています。
”龍馬は全身34箇所の傷があった”
最後に
この記事では、坂本龍馬の遺体や
その時の坂本龍馬の脳の状態について
様々な人の証言からその謎をひも解きながら
坂本龍馬の死因について解説しました。
結論からいいますと
坂本龍馬の死因は暗殺です。
- 坂本龍馬の誕生日:1836年1月3日
- 坂本龍馬の命日:1867年12月10日
※坂本龍馬の最期(最後)の年齢は31歳
坂本龍馬の死因は暗殺でしたが
犯人の名前などは不明のままです。