雪舟(せっしゅう)とは
室町時代に活躍した水墨画家、禅僧です。
誕生時期:1420年
死亡時期:1506年または1502年
雪舟とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
雪舟について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
雪舟ってどんな人?
雪舟の誕生日
雪舟は1420年(応永27年)に
備中国赤浜(現在の岡山県)で
小田氏という武家の家で生まれたそうです。
※雪舟の具体的な誕生日は不明です。
雪舟は号(ペンネーム)で、
死後の尊称は「等楊(とうよう)」とされた為
「雪舟等楊」とも呼ばれています。
雪舟と天章周文
雪舟は幼くして近くにある
宝福寺に入り、禅の修行を開始。
しかし雪舟は禅の修行よりも
好きな絵ばかりを描いて過ごしたそうです。
その後、京都の相国寺で
天章周文という画僧から画法を教わります。
それから周防国(現在の山口県)の
守護大名大内氏に招待され、
雪舟は周防国に移り住みます。
そこで雪舟は大内氏から
経済的な援助を受けたとされています。
この頃には、禅の僧としてだけではなく
画僧としても高い評価を受けていたようです。
雪舟と明(中国)
1467年、雪舟は明(中国)に渡ります。
その地で雪舟は
南宋王朝初期や元王朝の作品だけでなく、
同時代の明の風景画などを見て学びながら
2年間、本格的な水墨画を研究したそうです。
雪舟は当時の明の画家よりも
宋や元代の画家を尊敬し、
夏珪(かけい)や李唐の作品を中心に
その技などを吸収したとされています。
中国の地でも雪舟は評判が良く
”四明天童山第一座”という称号を賜ります。
帰国後の雪舟
その後日本へ帰国した雪舟は、
生涯の中でたくさんの水墨画を描きます。
はじめは豊後(大分県)に
『天開図画楼』という画室を構えて
のち周防に『雲谷庵』を再興します。
以後ここを本拠として
亡くなるまでの間に美濃(岐阜県)や京都、
丹後などを旅しながら水墨画を描き続けたそうです。
雪舟の最期
実は雪舟の生涯は
分かっていないことも多く、
亡くなった年も解明されていません。
雪舟が亡くなったのは
1506年(永正3年8月8日)で享年87歳と
一般的には言われていますが、
1502年(文亀2年)とする説もあります。
江戸時代に雪舟の人気が高まる
雪舟がとくに有名になったのは
江戸時代に入ってからです。
生前ですでに名声を得ていましたが、
江戸時代に日本画で大人気を博した
狩野派(狩野永徳の子孫)が
雪舟を尊敬していたことにより
日本中で雪舟の絵が人気となったそうです。
そこから雪舟はさらに注目され、
現代にまで名が残る有名な水墨画家となりました。
雪舟の作品について
雪舟の作品で
有名なものをいくつか紹介します。
- 秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)
- 破墨山水図(はぼくさんすいず)
- 天橋立図(あまのはしだてず)
- 四季花鳥図屏風(しきかちょうずびょうぶ)
- 黄初平図(おうしょへいず)
特に上の3つは非常に有名で、
国宝にも指定されています。
雪舟の作品は6点が国宝に、
他には数多くの作品が国の
重要文化財に指定されています。
最後に
この記事では
雪舟についてなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。