昌泰の変(しょうたいのへん)は
平安時代に起きた事件です。
この事件によって、全国各地に
天満宮が造営されることとなります。
昌泰の変とは何か?
どのような事件だったのか?などなど
昌泰の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
昌泰の変とは?
昌泰の変とは、901年1月に
左大臣の藤原時平の讒言により
醍醐天皇が右大臣の菅原道真を
大宰府へ左遷した事件です。
さらに菅原道真の子どもや右近衛中将
源善らを左遷や流罪にもしています。
ちなみに讒言(ざんげん)とは
他人を陥れるため、ありもしない事を
目上の人に告げ、その人のことを悪く言うこと。
讒言の内容は
「菅原道真は醍醐天皇を追い出して
斉世親王を天皇にしようとしてます」といった内容。
これを信じた醍醐天皇は、
右大臣だった菅原道真を大宰員外帥として
都から遠い九州の大宰府へ左遷したのです。
昌泰の変の経緯
宇多天皇による寛平の治【昌泰の変の経緯】
藤原基経の死後、藤原北家の
勢力を危惧した宇多天皇は、
源氏や菅原道真といった藤原北家と
関係のない人物を重用します。
これを「寛平の治」といいます。
また宇多天皇の子どもには
醍醐天皇や斉世(ときよ)親王がいて、
菅原道真の娘が斉世親王に嫁いでいました。
宇多天皇は醍醐天皇に
「寛平御遺誡(かんぴょうんごゆいかい)」という
書置を渡します。
そして897年、宇多天皇は
譲位、醍醐天皇が即位します。
醍醐天皇の妃問題【昌泰の変の経緯】
宇多天皇は譲位後も、朝廷内で
影響力を持っていたようです。
宇多上皇は醍醐天皇の妃に、自身の
同母妹である為子内親王を選びます。
藤原氏に関係のない皇族出身者を
天皇の妃にすることで、藤原氏の力を
弱めることが狙いだったのです。
しかし、為子内親王が死去。
そこで左大臣であった藤原時平は
自分の妹である藤原穏子を
醍醐天皇の妃にしようと考えます。
藤原時平、邪魔者を排除【昌泰の変の経緯】
これに宇多天皇と菅原道真らは反対。
しかし一方で、その頃宇多天皇は
仏教に熱中しており、お寺にいることが増え
次第に政治への影響力が薄れていきます。
藤原時平は、これをチャンスとし、
宇多天皇の側近であった菅原道真を
政治の世界から追放しようと考えます。
その結果、昌泰の変が起こったのです。
最後に
昌泰の変とは何か?
どのような事件だったのか?などなど
昌泰の変について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。