崇峻天皇(すしゅんてんのう)は日本の第32代天皇です。
誕生時期:553年
死亡時期:592年12月12日
崇峻天皇は592年12月に、
蘇我馬子によって暗殺されたとされています。
この記事では
崇峻天皇とはどんな人だったのか?
なぜ暗殺されたのか?などなど
崇峻天皇について
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
崇峻天皇とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
- 崇峻天皇の誕生日
- 崇峻天皇の天皇即位
- 崇峻天皇の最期
崇峻天皇の誕生日
崇峻天皇は553年頃に
欽明天皇と小姉君(こあねのきみ)との間に生まれます。
※崇峻天皇の具体的な誕生日は不明です。
崇峻天皇の母親「小姉君」は、
蘇我馬子と兄妹であったことから
蘇我馬子は崇峻天皇の叔父にあたります。
崇峻天皇の名前は泊瀬部(はつせべ)、
古事記には長谷部若雀天皇
(はつせべのわかささぎのすめらみこと)と記載されています。
崇峻天皇の天皇即位
587年に用明天皇が亡くなります。
※用明天皇:聖徳太子の父親
当時、物部守屋を滅ぼして
権力を握っていた大臣の蘇我馬子が
次の天皇に崇峻天皇を推します。
そして蘇我馬子の推薦によって
同年に崇峻天皇は、天皇に即位。
しかし崇峻天皇の天皇在位期間はわずか5年ほどでした。
崇峻天皇の最期
592年12月12日、蘇我馬子は
東国の調(当時の租税)を進めると偽って
崇峻天皇を儀式に臨席させます。
そしてその席で、崇峻天皇は
蘇我馬子に命じられた東漢駒(やまとのあやのこま)に
よって暗殺されます。享年39歳。
日本で唯一、
臣下によって天皇が殺害された事件です。
崇峻天皇はなぜ蘇我馬子に暗殺された?
崇峻天皇は
蘇我馬子に推薦されて天皇になったのに、
なぜ蘇我馬子に暗殺されてしまったのでしょうか?
崇峻天皇の暗殺について
「日本書紀」では次のように経緯が記されています。
↓
まず、天皇に即位した崇峻天皇ですが
政治の実権は蘇我馬子が握っていました。
そのことを崇峻天皇は次第に不満に感じたようです。
そして592年の10月4日、
崇峻天皇に猪(イノシシ)を献上する者がいました。
※献上(けんじょう):さしあげること。
その時に崇峻天皇はその猪の目を指さし
「いつの日か、この猪の首を斬るように
私の嫌いな人の首を斬りたいものだ」と言ったそうです。
この発言を知った蘇我馬子は、
「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒します。
さらに、崇峻天皇が近辺から
兵や武器を集めているという噂も耳にして
蘇我馬子はますます警戒心を強めます。
両者の間に緊張が高まる中、
蘇我馬子は崇峻天皇の暗殺を計画します。
蘇我馬子はこれまでも自らの邪魔を
するものは殺害してきたとされる人物です。
綿密な計画を立て、東漢駒に命じて
崇峻天皇を暗殺することに成功しました。
また、この東漢駒は間もなく
蘇我馬子に処刑されています。
理由は、蘇我馬子の娘の河上娘と
密通していたからということですが
実際は蘇我馬子による崇峻天皇暗殺の
口封じと考えてしまいますよね。
また、この崇峻天皇の暗殺については諸説あり、後世で記した藤原不比等によるねつ造であるという説も存在しています。
最後に
この記事では
崇峻天皇とはどんな人だったのか
なぜ暗殺されたのか、などなど
崇峻天皇について
なるべくわかりやすく簡単な言葉で解説しました。