平将門の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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平将門の像
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結論からいいますと
平将門の死因は戦死です。
※矢がおでこに命中して死亡

  • 平将門の誕生時期:903年
  • 平将門の命日:940年3月25日

※平将門の最後の年齢は38歳

 

平将門はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

 

将門伝説の歴史 (歴史文化ライブラリー)

 

平将門(たいらのまさかど)とは
平安時代中期の関東の豪族です。

  • 平将門の誕生時期:903年
  • 平将門の命日:940年3月25日

※平将門の最後の年齢は38歳

 

平将門とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
平将門の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

平将門の誕生日

平将門は903年(延喜3年)
平良将(たいらのよしまさ)の子として
生まれたといわれています。
※平将門の具体的な誕生日は不明です。

生年についても、884年誕生の説なども存在しています。

 

父の平良将は、武家兵士の祖といわれ、
当時の最高栄誉職だった鎮守府将軍です。

 

また平将門は
第50代天皇の桓武天皇の子孫であった為
平氏にも色々分家がありましたが
平将門家は、桓武平氏流でありました。

 

平将門と平国香

平将門は上京して藤原忠平に仕えます。

しかし、あまり昇進はできないまま
地元である下総国佐倉(現在の千葉県)に戻ります。

ところが佐倉へ戻ってみると、
935年に叔父である平国香(たいらのくにか)
源護(みなもとのまもる)の3人の息子が襲撃してきます。

 

平将門の関東攻め

当時の関東では
父の平良将が亡くなったことから、
一族による領土争いが起きていたのです。

これらを打ち破った平将門は、
得意とした騎馬戦を用いて、下総国をはじめ
常陸国、上総国、武蔵国などの
関東地方を次々と支配していくのです。

 

朝廷には、これらの争いについては
一族間の争い」ということで
平将門はお咎めを受けませんでした。

 

平将門の乱の始まり

この頃、常陸国(現在の茨城県)
お尋ね者となっていた土豪の
藤原玄明(ふじわらのはるあき)が平将門に助けを求めます。

平将門は、この藤原玄明を匿い
常陸国司に戦を仕掛けて勝利します。

 

さらに下野(栃木県)、上野(群馬県)
国府も打ち破り、関東を支配下に置きます。

 

こうして平将門は反乱者となり、
自らを「新皇(しんのう)」と名乗って
新しい国づくりをはじめます。

 

いよいよ朝廷も見過ごせない状況となります。

朝廷が関東に兵を動かしている間に、
平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)
藤原秀郷(ひでさと)が、平将門を攻め込みます。

 

平将門の最期

そして平将門は
940年3月25日(天慶3年2月14日)
額に流れ矢が命中し、絶命します。

享年38歳と伝わります。

 

この内乱は「平将門の乱」といいますが、
最近では、瀬戸内海における藤原純友の乱
あわせて「承平・天慶の乱」とも呼ばれています。

 

「平将門の首塚」って?

平将門 首塚の謎―GOD KAZUKIが伝える“本当の歴史”〈2〉 (GOD KAZUKIが伝える“本当の歴史” (2))

崇徳天皇、菅原道真、平将門という
非業の死を遂げた歴史上の3名は
日本三大怨霊”と呼ばれています。

 

東京都千代田区には、
平将門の首を祀っている
平将門の首塚」があります。

 

この首塚には不思議な逸話があります。

 

関東大震災【平将門の首塚】

まず関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の
再建のときに首塚を壊して仮庁舎を建設。

それからわずか2年の間に
大蔵大臣をはじめ関係者が十数名亡くなり、
多くのけが人や病人も出たことから、
この仮庁舎は取り壊されたそうです。

 

戦後の取り壊し【平将門の首塚】

戦後、アメリカ軍が駐車場を建てようと
首塚を取り壊しを始めた際に、
ブルドーザーが横転して運転手が亡くなります。

このことから首塚取り壊しは中止されました。

 

 

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