結論からいいますと
東郷平八郎の死因は病死です。
咽頭がんなどの様々な病気にかかり
それが悪化してこの世を去りました。
- 東郷平八郎の誕生日:1848年1月27日
- 東郷平八郎の命日:1934年5月30日
※東郷平八郎の最期(最後)の年齢は86歳
東郷平八郎はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は
幕末(江戸時代後期)に誕生し
昭和時代初期まで生き続けた薩摩藩士、海軍軍人です。
- 東郷平八郎の誕生日:1848年1月27日
- 東郷平八郎の命日:1934年5月30日
※東郷平八郎の最期(最後)の年齢は86歳
日露戦争では連合艦隊司令官として
バルチック艦隊を撃破したことで
「東洋のネルソン」と称されました。
東郷平八郎はどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
東郷平八郎の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
東郷平八郎の誕生日
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)は
1848年1月27日(弘化4年12月22日)に
薩摩国(現在の鹿児島県)の加治屋町で
薩摩藩士の東郷実友の四男として誕生します。
東郷平八郎は、1863年に起きた
薩英戦争に16歳で初めて出陣し、
21歳で薩摩藩の海軍所に入所します。
東郷平八郎とイギリス留学
1868年の戊辰戦争にも、東郷平八郎は新政府軍として従軍します。
そして明治維新後、1871年から7年間、海軍の第1回留学生としてイギリスで国家間の法律を学びます。
東郷平八郎と日清戦争
イギリスから帰国した後、
海軍中尉となった東郷平八郎は
1894年の日清戦争に参加します。
浪速艦長として豊島(ほうとう)沖、黄海、威海衛(いかいえい)などに出撃し、活躍します。
東郷平八郎と日露戦争
日露戦争では連合艦隊司令官となり
東郷平八郎は自ら主要作戦を指揮します。
そして、日本海海戦で当時世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を破って、勝利し名声を上げます。
※これはアメリカやイギリスなどの列強諸国を驚かせ、東郷平八郎の名は「アドミラル・トーゴー」として世界的に知れ渡りました
東郷平八郎は、のち軍司令部長、東宮御学問所総裁を務めます。
東郷平八郎の最期
東郷平八郎は
1934(昭和9)年5月30日に亡くなります。
喉頭がん、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化が死因と言われています。享年86歳。
東郷平八郎の死因は病死です。
咽頭がんなどの様々な病気にかかり
それが悪化してこの世を去りました。
- 東郷平八郎の誕生日:1848年1月27日
- 東郷平八郎の命日:1934年5月30日
※東郷平八郎の最期(最後)の年齢は86歳
東郷平八郎のエピソード
ここでは
東郷平八郎のエピソードを
簡単にわかりやすく紹介していきます。
国内外に影響を与えた東郷平八郎
アジアの小国であった日本が
日露戦争でロシアに勝利したことは
国内外に大きな影響を与えました。
特に、ロシアの政策に困っていたトルコでは
大国ロシアの艦隊を撃破しただけでなく、
戦後、捕虜たちを手厚く介抱した東郷平八郎は大人気となります。
※東郷平八郎の影響から、当時は子どもに「トーゴー」と名付けるのが流行ったそうです
実はおしゃべりだった東郷平八郎
実は東郷平八郎は
おしゃべりであったそうです。
大久保利通に「東郷はおしゃべりだから」
という理由で一度留学を却下されたと伝わります。
他にも、イギリスでの対人関係が
原因という説もありますが、イギリス留学後の
東郷平八郎は寡黙になったと言われています。
東郷平八郎は「肉じゃが」の生みの親?
諸説ありますが、「肉じゃが」を
生み出したのは東郷平八郎と言われています。
イギリス留学中に食べた
「ビーフシチュー」の味が忘れられず
帰国後に日本の軍艦の料理係に
ビーフシチューを作らせます。
しかし当時の日本にある調味料は
醤油や砂糖などであり、出来上がったのが
肉じゃがの原型だったそうです。