以仁王(もちひとおう)は
平安時代末期を生きた皇族です。
誕生時期:1150年
死亡時期:1180年7月
「以仁王の令旨」を出して
源氏に平氏打倒の挙兵を促したことで知られています。
以仁王とはどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
以仁王について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
以仁王ってどんな人?
以仁王の誕生日
以仁王は、1151(仁平1)年に
後白河天皇の第3皇子として誕生します。
※以仁王の具体的な誕生日は不明です。
兄が早くに出家したことから、
第2皇子とされることもあります。
母親は権大納言の藤原季成の
娘、成子という女性でした。
邸宅が三条高倉にあったことから
三条宮、高倉宮と称されます。
以仁王の不遇な時代
以仁王は血筋も高貴で、歌の才能や
人望もあり、優秀な人物だったそうです。
しかし母親が摂関家の出でなかったことや
後白河天皇と平滋子の間に生まれた高倉天皇に
その座を奪われたことで、不遇のうちに成長。
権勢を誇った平滋子の妨害によって、
以仁王は天皇になれなかったと考えられています。
さらに1166年には、母方の伯父である
藤原公光が権中納言を解官されたことで
以仁王は親王宣下さえ受けることはできませんでした。
以仁王の令旨
1180(治承4)年、源頼政と協力して
平氏打倒の首謀者として政権樹立の
令旨を諸国の源氏に伝えて挙兵を促します。
しかし、その計画が平氏に漏れてしまい、
平清盛らは、以仁王に対して兵を
派遣することを決めます。
以仁王と円城寺
思いのほか早く平氏に漏れてしまった
以仁王は、円城寺(おんじょうじ)に逃げます。
円城寺は多くの僧兵がいた大寺院で、
以仁王は彼らの援助を要請します。
園城寺の僧たちは以仁王を奉じて
抵抗しますが、平氏軍に攻め込まれます。
そこで、以仁王は園城寺を脱出して
奈良の興福寺を目指して再び逃亡します。
しかし、その途中の宇治川で
源頼政軍と平清盛軍が戦った際に
以仁王は流矢にあたってしまいます。
以仁王の最期
以仁王は
1180年6月20日(治承4年5月26日)に
興福寺へたどり着く前に亡くなります。享年30歳。
戦いに敗れた源頼政も自害。
以仁王と源頼政の挙兵は敗れましたが、
以仁王の遺志は令旨として、
各地の源氏に伝わります。
そして、今後の源平合戦が始まることとなったのです。
最後に
以仁王とはどんな人なのか?
何をした人だったのか?などなど
以仁王について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。