結論からいいますと
足利義満の死因は不明です。
病死説や暗殺説などがありますが
その詳細は明らかになっていません。
- 足利義満の誕生日:1358年9月25日
- 足利義満の命日:1408年5月31日
※足利義満の最期の年齢は49歳
足利義満の死因が病死だった場合
病名は風邪の悪化による急性肺炎か
室町時代の流行病だと考えられています。
足利義満はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
足利義満(あしかが よしみつ)は
室町時代を生きた、室町幕府第3代将軍です。
- 足利義満の誕生日:1358年9月25日
- 足利義満の命日:1408年5月31日
※足利義満の最期の年齢は49歳
また、京都府「金閣寺」の
建設者としても日本で有名です。
足利義満とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
足利義満の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
※足利義満の死因を考察するために必要な情報も盛りだくさんです💡
- 足利義満の誕生日
- 足利義満、10歳にして将軍へ
- 足利義満、室町幕府を京都に移す
- 足利義満と南北朝合一
- 足利義満、太政大臣に
- 足利義満、金閣寺の建設
- 足利義満と応永の乱
- 足利義満と北山文化【明と勘合貿易を開く】
- 足利義満の最期
足利義満の誕生日
1358年9月25日、
足利義満は京都で生まれます。
父は第2代将軍の足利義詮、
母は側室の紀良子です。
足利義満の祖父は、
室町幕府を開いた足利尊氏です。
足利義満は長男ではありませんでしたが、
長男の千寿王は若くして亡くなったため
足利義満が嫡男として育てられます。
また、この頃の幕府は
南朝との抗争が続き
南朝勢力が攻め込んできたため
父の足利義詮と共に兵庫へ避難します。
足利義満、10歳にして将軍へ
小さい頃から将軍になるため
勉強をしていた足利義満ですが、
なんと10歳にして将軍になります。
父の足利義詮が病気で亡くなった為です。
足利義詮の遺命により、
細川頼之が幼少の足利義満を補佐し、管領となります。
足利義満、室町幕府を京都に移す
1378年、足利義満は京都に
「花の御所」をつくり室町幕府を移します。
足利義満と南北朝合一
1391年、明徳の乱が起こります。
これによって足利将軍の勢力を拡大します。
そして翌年、南北朝を統一します。
足利義満は
58年間も続いた南北の争いを終わらせます。
足利義満、太政大臣に
1394年、足利義満は息子の義持に
将軍職を譲り隠居しましたが、
政治上の実験は握り続けます。
同年、足利義満は
従一位太政大臣にまで昇進します。
足利義満は太政大臣として
朝廷内でも権力を奮いました。
足利義満、金閣寺の建設
1395年、足利義満は
太政大臣を辞めて出家します。
1397年、足利義満は
北山に別荘を建てます。
これは後の鹿苑寺(金閣寺)ですが、
この時は「北山殿」と呼ばれていました。
金閣寺は金箔がふんだんに貼られた
煌びやかな3回建てのお寺です。
これは足利義満が
「世に知らしめたい権威を表している」
と言われています。
足利義満と応永の乱
1395年には九州探題として
独自の権力を持っていた今川貞世を罷免します。
また、1399年には
応永の乱が起こります。
これは足利義満が有力守護大名の弱体化を図り
西国の有力大名・大内義弘を挑発します。
そして義弘が堺で挙兵したのを機に
幕府が義弘を討伐したのです。
これによって、西日本で
足利義満に対抗できる勢力はいなくなりました。
足利義満と北山文化【明と勘合貿易を開く】
1401年、明に使者を送ります。
1404年、明との貿易が開始されます。
これにより足利義満は巨額の富を得ます。
このような足利義満の働きは
室町幕府の最盛期を作り、
この時代の文化は北山文化と呼ばれています。
足利義満の最期
1408年5月31日、
足利義満は亡くなります。享年49歳。
また、義満の最後の言葉(遺言)には
「北山の別荘を寺にしてほしい」とあり、
のちに鹿苑寺(金閣寺)となりました。
足利義満の死因は不明です。
病死説や暗殺説などがありますが
その詳細は明らかになっていません。
- 足利義満の誕生日:1358年9月25日
- 足利義満の命日:1408年5月31日
※足利義満の最期の年齢は49歳
足利義満の死因が病死だった場合
病名は風邪の悪化による急性肺炎か
室町時代の流行病だと考えられています。