足利尊氏の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】
結論からいいますと
足利尊氏の死因は敗血症です。
※戦いで受けた背中の傷が悪化して死亡
- 足利尊氏の誕生日:1305年8月18日
- 足利尊氏の命日:1358年6月7日
※足利尊氏の最期の年齢は52歳
目次
足利尊氏はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
足利尊氏(あしかがたかうじ)は
鎌倉時代後期に誕生し
室町時代前期までを生きた武将です。
約230年も続く室町幕府を
開いた人物として有名です。
- 足利尊氏の誕生日:1305年8月18日
- 足利尊氏の命日:1358年6月7日
※足利尊氏の最期の年齢は52歳
足利尊氏はどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
足利尊氏の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
足利尊氏の死因考察に関係ある情報がたくさんあるかと思います💡
柴犬
足利尊氏の誕生日
足利尊氏(あしかが たかうじ)は
1305年8月18日(嘉元3年7月27日)に
鎌倉幕府の御家人である足利貞氏と
上杉清子との次男として生まれます。
足利尊氏と鎌倉幕府
鎌倉時代後期の1331年、
父の足利貞氏が亡くなります。
しかしその時期、後醍醐天皇が
鎌倉幕府打倒の兵を挙げたため
喪中であったにも関わらず、
足利尊氏は上洛することになります。
※上洛(じょうらく):京都にいくこと
鎌倉幕府から
後醍醐天皇を討伐せよと
命令を受けたためです。
このことは
足利尊氏が鎌倉幕府に対して
不満をもつきっかけになったとされています。
足利尊氏と鎌倉幕府滅亡
その後、幽閉されていた後醍醐天皇は
隠岐(島根県)を脱出して船上山(鳥取県)に籠城し
再び鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げます。
※籠城(ろうじょう):城にたてこもって敵から身を守ること
鎌倉幕府に再び出兵を命じられた
足利尊氏ですが、鎌倉幕府を見限って
後醍醐天皇方に寝返ります。
そして鎌倉幕府の役所といえる
六波羅探題を攻めて、鎌倉幕府は滅亡。
足利尊氏と後醍醐天皇
この建武の新政は天皇中心の政治であり、
足利尊氏の理想の政治とはかけ離れていました。
鎌倉幕府を滅ぼすために
足利尊氏が後醍醐天皇と手を組んだ理由は
後醍醐天皇も庶民の味方だと思っていたから。
しかしいざ、
後醍醐天皇が権力を握った後に
やってることは天皇中心。
これに足利尊氏は失望します。
そして
後醍醐天皇と距離を置くようになり
ついには対立するようになります。
後醍醐天皇は、
新田義貞(にったよしさだ)や
楠木正成(くすのきまさしげ)らに
足利尊氏討伐の命を下すことに。
足利尊氏は楠木正成らに負け、一時九州に逃れます。
足利尊氏、征夷大将軍に
足利尊氏の心は、折れませんでした。
九州で力をたくわえて
1335年に関東で北条時行の反乱を鎮めます。
翌年には楠木正成を倒して京に入り
持明院統の光明天皇を立てて北朝を起こします。
そして1338年、建武式目を制定して
征夷大将軍となり室町幕府を開きます。
こうして
足利尊氏は後醍醐天皇を倒し
後醍醐天皇は捕虜となります。
足利尊氏と南北朝時代
後醍醐天皇の物語は
まだまだ終わりません。
捕虜となった後醍醐天皇は
なんと、逃亡します(吉野に脱げます)。
※吉野の場所:奈良県
そして後醍醐天皇はその吉野に
朝廷を樹立して足利尊氏に対抗。
この朝廷は、南朝と呼ばれています。
つまり、足利尊氏側が北朝を、
後醍醐天皇側が南朝をつくり、
日本の政治は2つ誕生することに。
そのため
後醍醐天皇が亡くなるまでの間を
南北朝時代と呼ぶことがあります。
※ややこしいですが基本的には、南北朝時代も室町時代の1部です。
後醍醐天皇は1339年に亡くなります。
足利尊氏と夢窓疎石
足利尊氏は夢窓疎石(むそうそせき)を
厚く信仰していたとされています。
1339年に亡くなった後醍醐天皇の
冥福を祈る為に天龍寺船を派遣して
その利益で天龍寺を建立したとされています。
足利尊氏の最期
1358年6月7日(天平13年4月30日)に
足利尊氏はこの世を去ります。享年52歳。
足利尊氏の死因は
「戦いの傷」だとされています。
戦いで受けた矢傷による
背中の腫れ物が原因となり、最後は
敗血症で死亡したと考えられています。