足利尊氏ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

WRITER
 
足利尊氏の像
この記事を書いている人 - WRITER -

足利尊氏再発見: 一族をめぐる肖像・仏像・古文書

 

足利尊氏(あしかがたかうじ)
鎌倉時代後期から
室町時代前期までを生きた武将です。

誕生時期:1305年8月18日
死亡時期:1358年6月7日

 

約230年も続く室町幕府
開いた人物として有名です。

 

足利尊氏とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
足利尊氏について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

足利尊氏ってどんな人?

室町人物伝 足利尊氏 (コミック版日本の歴史)

足利尊氏の誕生日

足利尊氏は
1305年8月18日(嘉元3年月27日)
鎌倉幕府の御家人である足利貞氏
上杉清子との次男として生まれます。

足利尊氏は当初、北条高時の名前の
一字を賜って足利高氏と名乗っています。

 

足利尊氏と鎌倉幕府

1331年、父の足利貞氏が亡くなります。

しかし後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた為
喪中であったにも関わらず、足利尊氏は
幕府から後醍醐天皇討伐の命を受けて上洛します。

 

一説では、このことをきっかけに
足利尊氏が次第に幕府への不満を募らせたと考えられています。

 

足利尊氏と鎌倉幕府滅亡

その後、幽閉されていた後醍醐天皇は
隠岐(島根県)を脱出して船上山(鳥取県)に籠城し
再び幕府を倒そうと兵を挙げます。

幕府に再び出兵を命じられた
足利尊氏ですが、鎌倉幕府を見限って
後醍醐天皇方に寝返ります。

そして鎌倉幕府の役所といえる
六波羅探題を攻めて、鎌倉幕府は滅亡します。

 

足利尊氏と後醍醐天皇

同年に足利尊氏は功績を上げた臣下として
後醍醐天皇の名前である尊治の一字
賜って尊氏改名します。

 

しかし後醍醐天皇の行った建武の新政
天皇中心であり、足利尊氏の
理想の政治とはかけ離れていました。

 

次第に後醍醐天皇と距離を置くようになり
ついには対立するようになります。

 

そしてついに後醍醐天皇は、
新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)らに
足利尊氏討伐の命を下したのです。

 

足利尊氏と南北朝時代

戦いに敗れた足利尊氏は一時九州に逃れます。

しかし九州で力をたくわえて
1335年に関東で北条時行の反乱を鎮めます。

翌年には楠木正成を倒して京に入り
持明院統の光明天皇を立てて北朝を起こします。

1338年、建武式目を制定して
征夷大将軍となり室町幕府を開きます。

 

しかし後醍醐天皇は吉野(奈良県)にも
朝廷を樹立、南朝と呼ばれています。

そのため後醍醐天皇が亡くなるまでの間を
南北朝時代と呼び、その後は室町時代と区切られています。

 

以後、吉野の南朝、弟の足利直義
抗争を続け1352年に弟を倒します。

 

また足利尊氏は夢窓疎石(むそうそせき)を厚く信仰し、
1339年に亡くなった後醍醐天皇の
冥福を祈る為に天龍寺船を派遣してその利益で天龍寺を建立しました。

 

足利尊氏の最期

足利尊氏は
1358年6月7日(天平13年4月30日)
戦いで受けた矢傷による背中の
腫れ物がもとで亡くなります。享年54歳。

 

最後に

足利尊氏 激動の生涯とゆかりの人々 (戎光祥中世史論集)

足利尊氏とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
足利尊氏について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© でも、日本が好きだ。 , 2018 All Rights Reserved.