結論からいいますと
足利義政の死因は病死です。
蔭涼軒日録によると
足利義政の最期について
中風が悪化した旨が書かれてます。
※中風(ちゅうふう):脳卒中の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉
- 足利義政の誕生日:1436年1月20日
- 足利義政の命日:1490年1月27日
※足利義政の最期の年齢は54歳
足利義政はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
足利義政(あしかがよしまさ)は
室町時代を生きた、室町幕府第8軍将軍です。
- 足利義政の誕生日:1436年1月20日
- 足利義政の命日:1490年1月27日
※足利義政の最期の年齢は54歳
京都府「銀閣寺」の
建設者でもあります。
足利義政とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
足利義政の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
※足利義政の死因考察にぜひお役立てください💡
- 足利義政の誕生日
- 足利義政、13歳で将軍に
- 足利義政と東山文化
- 足利義政と家督継承問題
- 足利義政と応仁の乱
- 足利義政の晩年
足利義政の誕生日
1436年1月2日、足利義政は
第6代将軍足利義教の三男として誕生します。
足利義政の母は日野重子です。
次期将軍として期待されていた
兄の足利義勝とは異なり、
足利義政は母方の一族である
公家の烏丸資任の屋敷にて育てられます。
足利義政、13歳で将軍に
1441年、
足利義政の父「義教」が
嘉吉の乱で暗殺された後、
足利義政の兄「義勝」が7代将軍となります。
しかし、
1443年に義勝が亡くなった為
足利義政はわずか8歳で将軍に選出され、
1449年に正式に第8代将軍となります。
1455年、足利義政は19歳で
日野富子と結婚します。
1459年に男児を授かりますが、
すぐに亡くなってしまいます。
足利義政と東山文化
足利義政は、政治への意欲について
あまり関心が無い人物と伝えられていますが、
芸術面では優れた指導力を発揮し、
今後の日本の芸術に影響を与えました。
なんと足利義政は、猿楽や邸宅、
日本庭園の造営をしたといわれています。
他にもこの時代に
茶道、絵画、工芸なども発展します。
また、足利義政の晩年は
東山文化とも呼ばれており、
彼が建てた慈照寺銀閣(銀閣寺)は
東山文化を代表する建築といわれています。
足利義政と家督継承問題
足利義政と富子の間に
息子がいなかったため、
足利義政は弟の義視を後継者にしようと考えます。
しかし義視は出家し
仏門に入っていたため還俗させ、
次期将軍に定めます。
しかしその翌年、
日野富子が善尚を出産します。
富子は善尚の将軍後継を望み、
政権の実力者であった
山名宗全(持豊)に協力を願い出ます。
一方、善視は管領の細川勝元と手を組みます。
この足利将軍家の家督継承問題に対して
足利義政はどちらにも将軍職を譲らずに
文化的な趣味を楽しみ、はっきりしませんでした。
足利義政と応仁の乱
そして1467年、
細川勝元と山名宗全との対立に
足利義政の跡継ぎ問題だけでなく、
斯波氏・畠山両菅領家の相続争いがからみ
約10年以上続く応仁の乱が始まります。
諸国の守護大名が
細川方の東軍と山名方の西軍に
分かれて戦います。
京都を舞台に戦いが繰り広げられ
戦火は地方にも広がっていきます。
1473年、
西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の
両名が死んだことを契機に、
義政は将軍職を息子の善尚に譲ります。
そして足利義政は正式に隠居します。
しかし、この応仁の乱が
起こったことにより京都は荒廃し、
以後幕府の権威は失墜していきます。
足利義政の晩年
京都市街「花の御所」が
戦火で焼失してしまったため、
足利義政は隠居後小川殿に移ります。
その後さらに長谷の山荘に移り
東山山荘の建築を本格的に始めます。
1489年、善尚が陣中で病死したため
政治に復帰しますが病に倒れます。
1490年、足利義政は亡くなります。享年54歳。
慈照寺銀閣の完成を目にすることはかないませんでした。
足利義政の死因は病死です。
蔭涼軒日録によると
足利義政の最期について
中風が悪化した旨が書かれてます。
※中風(ちゅうふう):脳卒中の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉
- 足利義政の誕生日:1436年1月20日
- 足利義政の命日:1490年1月27日
※足利義政の最期の年齢は54歳