遠藤盛数(えんどうもりかず)は
戦国時代(室町時代後期)の武将です。
誕生時期:不明
死亡時期:1562年11月10日
天空の城「郡上八幡城」の築城者でもあります。
遠藤盛数とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
遠藤盛数について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
遠藤盛数とは?
遠藤盛数の誕生日
遠藤盛数は遠藤胤好の
次男として生まれます。
郡上郡の支配者東氏の一族で
木越城主の遠藤胤緑が兄です。
遠藤盛数の生誕月日は分かっておらず
通称は六左衛門でした。
和田五郎左衛門 暗殺
1540年、
兄胤緑の子・遠藤胤基の子である
和田五郎左衛門が小多良和田会津
(現郡上市)に要害を構えていました。
彼の勢力拡大を恐れた遠藤盛数らは、
宗家当主で篠脇城主の東常慶と謀り、
兄・胤緑と共に五郎左衛門を暗殺します。
遠藤盛数の活躍
同年8月、
越前の朝倉義景が郡上に侵入した際は、
兄・胤緑と常慶に進言し決戦を決意させ、
9月3日に篠脇城が攻撃されると、
遠藤盛数は一隊を率いて朝倉勢の
背後を突いて、多大な損害を与えます。
領地を得る
1552年、東氏の一族で福野城主の
河合七郎の勢力拡大を恐れた
東常慶の命により福野城を奇襲します。
そして七郎一族を滅亡させるのです。
それまでは兄・胤緑の木越城に
同居していた遠藤盛数は、
七郎の領地であった
下川筋(現郡上市美並町)を
与えられ、新に鶴尾山城を築きます。
兄・胤緑の死
東常慶には実子・常堯がしましたが
悪逆非道だったため遠藤盛数が
婿養子に迎えられ、1555~1558年の間に
家督を譲られたといわれています。
その一方で、
常慶は常堯を遠藤胤緑の娘と
縁組させたかったのですが、
胤緑は常堯の非道を理由に同意せずに、
娘を畑佐六郎右衛門に縁付かせました。
そしてこれを恨んだ常堯は、
1559年に胤緑が東殿山城を訪問した際
家臣・長瀬内膳に命じて射殺させます。
兄の弔い合戦
かねてより宗家に
とって代わることを考えていた遠藤盛数は、
兄のかたき討ちを大義名分に
郡内の諸豪を集めて、8月14日に兵を挙げます。
一説には飛騨の三木良頼の加勢を得て
八幡山山頂に布陣します。
10日間にわたる攻防戦の末、
東殿山城を落城させて常慶を滅ぼします。
そして遠藤盛数はこのとき布陣した八幡山に、新たに八幡城を築きました。
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は郡上市重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
引用:郡上八幡城
遠藤盛数の最期
遠藤盛数は
胤緑の子・胤俊に木越城主を継がせて、
所領のうち半分を分け与え、
それ以後両家は「両遠藤」と呼ばれます。
両遠藤は稲葉山城主・斎藤龍興の配下となり、
1561年に織田信長の軍が
西濃に侵攻したときには、
関城主・長井通利の軍と連合して、
森部(現安八郡安八町)で防戦します。
1562年11月10日、井ノ口(現・岐阜県)で病死します。
最後に
遠藤盛数とはどんな人なのか?
何をした人なのか?などなど
遠藤盛数について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。