昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は
江戸時代から大正時代までを生きた女性です。
※昭憲皇太后は明治天皇の皇后です。
誕生時期:1849年5月9日
死亡時期:1914年4月9日
昭憲皇太后は、欧州の王族貴族や貴婦人と
対峙できるよう近代女子教育を振興し、
社会事業の発展や国産の奨励などに努めました。
昭憲皇太后とはどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
昭憲皇太后について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
昭憲皇太后とは?【生涯をざっくりとわかりやすく解説】
昭憲皇太后の誕生日
昭憲皇太后は1849年5月9日に
従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生します。
生母は側室であった
一条家医師新畑大膳の娘・民子。
昭憲皇太后の幼名は勝子で、
通称は富貴君、富美君などでしたが
1858年に寿栄君と改名します。
昭憲皇太后、皇后に
1867年、昭憲皇太后は
新帝明治天皇の女御に決まります。
幼少から学問好きであったことから
姉を差し置き、家庭教師から
推薦されたと言われています。
またこれに先立って、明治天皇より
4歳年上であることを嫌がられたため
生年を1850年5月28日と改めます。
そして1869年2月、昭憲皇太后
美子と改名し従三位に叙任します。
同年12月に皇后となります。
また、昭憲皇太后は病弱であった為
実子はありませんでした。
嫡妻として、明治天皇の側室・
柳原愛子が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子としました。
昭憲皇太后は学問や和歌が得意だった?
学問好きな昭憲皇太后は、
入内後侍読(学者)の進講を受け
天皇への進講にも同席することがあったそうです。
他にも和歌・古典文学にも秀でており
作られた短歌(作歌)は
3万6000首にも上り、その一部は
「昭憲皇太后御歌集」で見ることができます。
アメリカ合衆国大統領フランクリンの
教訓を日本に置きかけた十二徳の歌などが著名です。
昭憲皇太后の女子教育・慈善事業
昭憲皇太后は、
欧米を視察した黒田清隆開拓次官から
欧米の女性が男性と同じように
教育を受けて社会で活躍している様子を
聞き、女子教育の重要性を再認識します。
1873年に
東京女学校への行啓を始めとし、
東京女子模範学校(現・学習院女子高等科)、
華族女学校(現・御茶の水女子大学)の設立も行います。
また、慈善事業にも熱心で、
博愛者社(現・日本赤十字社)や
東京慈恵医院の発展などにも大きく貢献します。
昭憲皇太后は維新期の皇后として
社会事業振興の先頭に立ちました。
他にも天皇と共に日本近代化の
諸事象にはほとんど参加しています。
- 宮中で養蚕を始める
- 洋装化など宮中の革命に努める
- 前後陸軍演習に数回行啓
- 憲法発布式典に参列
特に赤十字社や養蚕への関与などは
のちの皇后の在り方の模範となっています。
昭憲皇太后は、史上初めて
洋装をした皇后としても知られています。
昭憲皇太后の最期
1912年7月30日、
明治天皇が亡くなります。
その後1914年4月11日、
昭憲皇太后は狭心症を発作し
重体となり亡くなりました。
享年64歳。
最後に
昭憲皇太后とはどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
昭憲皇太后について
この記事でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。