大正天皇の死因とは?どんな最後だった?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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大正天皇の即位を記念して大正4年に建てられた大宝館
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結論からいいますと
大正天皇の死因は病死です。

大正天皇はもともと病弱で
最期(最後)は肺炎が原因で
心臓麻痺になり死亡しました。

  • 大正天皇の誕生日:1879年8月31日
  • 大正天皇の命日:1926年12月25日

※大正天皇の最期(最後)の年齢は47歳

 

大正天皇はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

大正天皇―一躍五大洲を雄飛す (ミネルヴァ日本評伝選)

大正天皇(たいしょうてんのう)
明治時代から昭和時代初期まで生きた
日本の第123代天皇です。

  • 大正天皇の誕生日:1879年8月31日
  • 大正天皇の命日:1926年12月25日

※大正天皇の最期(最後)の年齢は47歳

大正天皇は初の一夫多妻制を採った天皇で、日本のシンボルとされるともゆかりのある人物です。

柴犬

 

大正天皇とは何をした人か?
大正天皇の生涯について
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

大正天皇の死因考察にもお役立てください💡

柴犬

 

大正天皇の誕生日

大正天皇(たいしょう てんのう)は
1879(明治12)年8月31日
明治天皇の第3皇子として生まれます。

 

明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名されます。

 

大正天皇は
生まれてから年が明けるまで
重度な病気を患います。

それ以降も健康面に不安がつきまといます。

 

大正天皇と桜

大正天皇の健康状態が快方に向かうのは
1900(明治33)年に結婚してからのことです。

この結婚を祝し各地で桜を植樹したことで、桜は日本のシンボルという概念につながったとされています🌸

柴犬

 

大正天皇と昭和天皇

翌年、のちの昭和天皇となる
裕仁(ひろひと)親王が誕生します。

 

1912年に明治天皇が亡くなり、
皇位を継承して大正と改元します。

 

しかし大正天皇は体調に不安があり、天皇業務は負担が重く、1921年から裕仁皇太子が摂政となります。

 

大正天皇の最期

大正天皇は1926(大正15)年12月25日に病気が原因で亡くなります。享年47歳。

大正天皇の死因は病死です。

大正天皇はもともと病弱で
最期(最後)は肺炎が原因で
心臓麻痺になり死亡しました。

  • 大正天皇の誕生日:1879年8月31日
  • 大正天皇の命日:1926年12月25日

※大正天皇の最期(最後)の年齢は47歳

 

 

大正天皇の家族について

大正天皇婚約解消事件 (角川ソフィア文庫)

ここでは
大正天皇の家族について
簡単に紹介していきます。

 

妻、貞明皇后【大正天皇の家族】

大正天皇の妻である貞明皇后は
第124代昭和天皇の生母であります。

公爵令嬢で、旧名は九条節子(さだこ)

皇太子妃に決定した後、大正天皇の
生母の柳原愛子が教育係の一人となりました。

 

ハンセン病の予防など救らい事業や
福祉事業、蚕糸業などに尽力します。

 

母、柳原愛子【大正天皇の家族】

大正天皇の生母は
柳原愛子(やなぎわらなるこ)という女性です。

この方は明治天皇の正室ではなく、
大正天皇はある程度成長するまで
「母は昭憲皇太后」と聞かされていたそうです。

 

大正天皇を出産後も宮仕えを続けて
43歳で女官の最高位とされる典侍となります。

 

大正天皇の子ども

大正天皇には4人の子どもがいます。

  • 迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)親王
  • 淳宮雍仁(あつのみや・やすひと)親王
  • 光宮宣仁(てるのみや・のぶひと)親王
  • 澄宮崇仁(すみのみや・たかひと)親王

 

裕仁親王がのちの昭和天皇です。

崇仁親王は2016年に100歳で亡くなり、
最長寿の皇族と記録されています。

 

大正天皇の兄弟

大正天皇の兄弟です。

明治天皇と昭憲皇太后の間には
子どもがいませんでした。

明治天皇は5人の側室との間に
5人の息子と10人の娘をもうけます。

 

しかし成人まで成長したのは5名です。

そのうちの一人が大正天皇であり、残りの4名は娘でした。

 

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