武田信玄は、戦上手で知られる
甲斐国の戦国大名です。
武田信玄のお城と聞かれて
あなたは何を思い浮かびますか?
この記事では
武田信玄のお城について紹介していきます。
人は城【武田信玄のお城】
武田信玄は城に関して
次の言葉を残しています。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり
信頼のできる人は
城にも匹敵するという言葉で
武田信玄は何よりも
人を重んじたと言われています。
そのため、
家臣を適材適所に配置をして
それぞれが各地で長所を発揮。
そうして強固な信頼関係を
築き上げることに成功します。
ただし、
この言葉が有名であることから
武田信玄は城を築かなかったと
思われている節がありますが、
決してそんなことはありません。
実際、武田信玄は
各地の城を次々と侵略し、
城の改修も行っています。
武田信玄の城について
ここでは
武田信玄ゆかりの城を
紹介していきます。
- 躑躅ヶ崎館
- 要害山城
- 松代城
躑躅ヶ崎館【武田信玄の城】
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は1521年、
武田信玄の父・信虎によって建てられました。
その後、武田信玄、武田勝頼の
三代にわたって居城とされています。
当時の戦国大名は、領地の拡大に合わせて
居城を替えていくことが多かったのですが、
武田信玄は生涯を通じて居城を
移すことはありませんでした。
また、躑躅ヶ崎館については
大改修も行っていません。
それは「戦に勝利している間は城を移さない」という
古くからの考えに基づいていたのではないかと考えられています。
なお現在、この躑躅ヶ崎館の跡地には
武田神社が建てられていて、武田信玄が祀られています。
要害山城【武田信玄の城】
要害山城(ようがいやまじょう)は、
1520年に武田信玄の父・信虎によって
躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた山城で
躑躅ヶ崎館の少し北の地にそびえています。
※詰城=敵に攻められたときに立てこもるための城。
実際に武田信虎は駿河、今川家の
武将・福島正成に侵攻された際に
自身の家族を要害山城に避難させています。
そして、
この要害山城へ避難中に
信虎の正室・大井夫人から
生まれたのが武田信玄です。
さらに近くには
「信玄の隠し湯」のひとつである
”積翠寺温泉”もあります。
松代城【武田信玄の城】
松代城(まつしろじょう)は武田信玄が
川中島の戦いの拠点として築城したとされています。
※川中島の戦いとは
武田信玄と上杉謙信がぶつかった戦いです。
元々は海津城(かいづじょう)と
呼ばれていたため、貝津城ともいわれていました。
長野県長野市松代町松代に建てられましたが、現在は城跡のみ存在しています。
最後に
この記事では
武田信玄の城について紹介しました。