上杉謙信の死因は病気ではなく暗殺?最後はトイレで死亡?【生涯(最初から最期まで)もわかりやすく簡単に解説】

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上杉謙信の銅像
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結論からいいますと
上杉謙信の死因は不明です。

病死説や暗殺説など諸説ありますが
その真実は明らかになっていません。

  • 上杉謙信の誕生日:1530年2月18日
  • 上杉謙信の命日:1578年4月19日

※上杉謙信の最期の年齢は48歳

 

謙信公御年譜によると
「上杉謙信の死因は脳卒中による病死」
というような内容が記載されています。

「三月九日ノ午刻、管領(謙信)卒中風(脳卒中)煩セ玉イ、忽たちまち困倒(昏倒)シテ人事ヲ顧ミ玉ハス。御一族ヲ始メ、諸将群臣以下、驚動スル事、限リナシ」

参考:謙信公御年譜

しかし他にも、織田信長による暗殺説や
脳卒中以外の病気が死因となった説など
諸説あり真実は謎につつまれたままです。

 

上杉謙信の死因は病死が定説ですが
当時の荒れた時代背景から考えると
暗殺された可能性も十分にあります。

上杉謙信はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】

上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将 (Truth In History)

上杉謙信(うえすぎけんしん)
戦国時代(室町時代後期)から
安土桃山時代までを生きた
越後国(現・新潟県)の大名です。

  • 上杉謙信の誕生日:1530年2月18日
  • 上杉謙信の命日:1578年4月19日

※上杉謙信の最期の年齢は48歳

 

 

武田信玄と宿命の対決といえる
「川中島の合戦」をした武将で
歴史ファンから人気のある人物です。

 

この記事では
上杉謙信とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
上杉謙信の生涯ついて詳しく
そしてわかりやすく解説していきます。

 

上杉謙信の死因を考察する際にぜひお役立てください💡

柴犬

上杉謙信の出生について

上杉謙信(うえすぎけんしん)は
1530年2月18日(享禄3年1月21日)に
越後守護代の長尾為景(ながおためかげ)
虎御前(とらごぜん)の子どもとして生まれます。
※虎御前(とらごぜん)の別名:青岩院(せいがんいん)

上杉謙信の両親
  • 父親:長尾為景(ながおためかげ)
  • 母親:虎御前(とらごぜん)

鎌倉時代を生きた虎御前とは別人

 

上杉謙信が誕生した場所は
越後の春日山城(かすがやまじょう)です。
※現在の新潟県上越市にあたります。

 

上杉謙信は寅年に生まれだったため
幼名は虎千代と名付けられます。

また、上杉謙信が6歳の頃に、
兄である長尾晴景家督を相続しています。

 

上杉謙信は景虎(かげとら)と名乗るように

1543年、上杉謙信は元服して
景虎(かげとら)と名乗るようになります。

この頃、兄の長尾晴景には
越後をまとめる才覚がなく
越後国では内乱が収まりませんでした。

 

しかし、弟の上杉謙信は
初陣で越後の豪族に勝利したり、
長尾氏の家臣である黒田秀忠が
2度にわたる謀反(裏切り)を起こした際に
黒田氏を滅ぼしたりと、活躍をします。

 

兼ねてから兄の長尾晴景に不満を抱く
一部の人達は、上杉謙信を守護代に擁立します。

 

春日山城の城主になる上杉謙信

1548年、守護の上杉定実の調停のもと
兄の長尾晴景と父子の義を結びます。

そして、兄の晴景は隠居することになり
上杉謙信は守護代長尾家を相続して、
春日山城の城主となります。

 

上杉謙信が19歳のときのことです。

 

上杉謙信と川中島の合戦

徹底分析 川中島合戦

 

1552年、武田信玄
信濃(現・長野県)侵攻によって
国の葛尾城(かつらおじょう)を追われた村上義清
城の奪還を求めて上杉謙信に頼ります。


これをきっかけに
上杉謙信は武田信玄討伐を
決意し、
12年の間に5回も戦いました。

特に1561年の川中島の合戦が有名です。

 

また、関東の北条氏康
武田信玄と協調していて、上杉謙信と対立します。

 

 

上杉謙信、関東管領に

1561年、上杉謙信は
関東管領の上杉憲政の養子となり
山内上杉氏の家督を相続します。

 

この時に上杉謙信は
名前を上杉政虎(まさとら)と改名し、
関東管領職も引き継ぎました。

 

越中平定

その後、上杉謙信は越中へ侵入して
神保の椎名氏らとも戦います。

1573年には越中を平定し
加賀の能登(のと)までを勢力範囲とします。

 

上杉謙信と織田信長の戦い

上杉謙信 (シリーズ・実像に迫る14)

 

武田信玄の死後は、北陸から朝倉氏や
一向一揆を滅ぼして上杉謙信の国境に
迫った織田信長軍との対決が課題となっていました。

 

上杉謙信は、織田信長との戦いで
苦戦していた本願寺顕如と和睦をします。

 

さらに、室町幕府将軍の足利義昭
身を寄せていた毛利氏とも手を組んで
織田信長との対決が始まろうとしていた最中に、上杉謙信は倒れます。

 

上杉謙信の最期(トイレで死亡?)

最期の言葉―一〇一人の男たちの辞世

 

春日山城へ帰還し、
次なる遠征への準備をしていた3月9日に、
上杉謙信は厠(トイレ)で倒れます。

昏睡状態の様子から
脳出血と考えられていて
1578年4月19日(天正6年3月13日)
上杉謙信は48歳で急死します。

 

上杉謙信は現在
山形県にある「上杉神社」に祀られています。

 

上杉謙信の死因は不明です。

  • 上杉謙信の誕生日:1530年2月18日
  • 上杉謙信の命日:1578年4月19日

※上杉謙信の最期の年齢は48歳

 

ただし、謙信公御年譜によると
「上杉謙信の死因は脳卒中による病死」
というような内容になっています。

 

しかし他にも、織田信長による暗殺説や
脳卒中以外の病気が死因となった説など
諸説あり真実は謎につつまれたままです。

上杉謙信の死因は病死が定説ですが
当時の荒れた時代背景から考えると
暗殺された可能性も十分にあります。

 

 

上杉謙信の性格について

上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将 (Truth In History)

 

上杉謙信の性格は
義を重んじる性格だったといわれています。

様々な戦いの中で
上杉謙信はまわりの将軍を助けています。

またその他には
信心深い性格でもあったそうです。

上杉謙信の性格については
こちらの記事で詳しく分析しているので
上杉謙信の死因と関係ある情報もみつかるかもしれません。
歴史好きの方は是非。

 

上杉謙信の兜について

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上杉謙信が使った兜の中では
太陽を表す「日輪」と「三日月」が
つけられたデザインの日輪三日月前立黒漆兜という兜がとても有名です。

上杉謙信の兜に込められた意味や
現在も実在する上杉謙信の兜については
以下の記事で詳しくまとめています。

 

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