桜田門外の変とは何か?【井伊直弼が暗殺された最期(最後)の様子も具体的に解説】

近世日本国民史 井伊直弼 (講談社学術文庫)

桜田門外の変は、江戸時代に起きました。

開始時期:1860年3月3日
終了時期:1860年3月24日

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当時、井伊直弼(いいなおすけ)
幕末期に大老として活躍しました。

その井伊直弼の死因は
桜田門外の変での暗殺とされていますが
なぜ、暗殺されてしまったのでしょうか?

 

この記事では
井伊直弼の死因である暗殺について、
そして、桜田門外の変とは何だったのか?
わかりやすく簡単な言葉で解説していきます。

 

目次

桜田門外の変とは何か?【わかりやすく解説】

桜田門外ノ変

 

桜田門外の変とは、
江戸城桜田門外で
井伊直弼を恨んでいた尊王攘夷派
水戸藩脱藩浪士や薩摩藩士
彦根藩の行列を襲撃した事件です。

 

江戸城桜田門外とは、現在の
東京都千代田区霞が関に位置します。

事件が起きた外桜田門
現在は国指定重要文化財に指定されています。

 

実は暗殺される直前の3月3日早朝、彦根藩邸に
水戸藩浪士の襲撃を密告する文書が届いていました。

しかし、井伊直弼は護衛を強化すると
失政の非難に動揺したという批判を招くと考え、
あえてそのまま出発したのだそうです。

 

そして3月3日の午前8時に
登城を告げる太鼓が江戸中から響いて
それを合図に大名たちが桜田門をくぐります。

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午前9時頃、60名ほどの彦根藩の行列が
桜田門を通った際に尊王攘夷派に襲撃されたのです。

 

また、その日の天候は雪で視界が悪く、駕籠の警備隊は合羽(かっぱ)を着て、刀にはかぶせものをしていて素早い反撃ができなかったのも、襲撃側には有利な状況でした。

 

井伊直弼が暗殺された最期(最後)の様子を具体的に

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1860年3月24日(安政7年3月3日)の朝に
水戸浪士は、井伊直弼が乗っていた
駕籠(かご)にめがけてピストルを発射します。

発射された弾丸によって井伊直弼は
腰部から太ももにかけて傷を負い動けなくなります。

彦根藩士の防衛もむなしく戦闘不能になり、
襲撃者は次々と駕籠に刀を突きさします。

そして、虫の息となった井伊直弼を
駕籠から引きずり出して、薩摩藩士であった
有村次左衛門井伊直弼を斬首します。

 

襲撃してからわずか
十数分の出来事であったと伝わっています。

 

 

桜田門外の変が起きたきっかけとは?【井伊直弼が暗殺されるまでの経緯】

大老井伊直弼 (光文社時代小説文庫)

 

井伊直弼は、当時大老という役職で、
将軍に次ぐ権力を握っていました。

当時の江戸幕府は
将軍継嗣問題修好通商条約の締結
という2つの課題に直面します。

特に修好通商条約は、
外国嫌いである孝明天皇の許可を
得られないまま締結をした為、朝廷が怒ります。

その結果、朝廷は水戸藩士らに
戊午の密勅という当時の幕藩体制を無視した、
前代未聞の朝廷による勅令でした。

 

これをきっかけに井伊直弼は、
尊王攘夷派を弾圧する安政の大獄を行います。

多くの尊王攘夷派が処刑、謹慎など
厳しい処分を課せられ、攘夷派はさらに反発します。

 

そして、特に攘夷派が中心となっていた水戸藩を脱藩した者たちによる井伊直弼暗殺計画が行われたのです。

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