岡田以蔵(おかだいぞう)とは
幕末期(江戸時代末期)の土佐藩郷士です。
誕生時期:1838年2月14日
死亡時期:1865年6月3日
「幕末の四大人斬り」の一人といわれ、
現在もスマートフォンゲームなどで
取り上げられる人気の高い人物です。
この記事では
岡田以蔵ってどんな人だったのか
何をした人かをわかりやすく簡単な言葉で解説していきます。
岡田以蔵って何をした人?
岡田以蔵の誕生日
岡田以蔵は
1838年2月14日(天保9年1月20日)に
土佐国香美郡岩村(現在の高知県)で郷士の
岡田義平の長男として生まれます。
弟は同じく勤王党に加わった岡田啓吉です。
岡田以蔵と鏡心明智流剣術
1848年に、外国船が土佐沖に現れ、
その防備をする為に父が足軽が
徴集されて、城下の七軒町に移住します。
岡田以蔵もこの足軽の身分を受け継ぎます。
1856年、武市瑞山に従い江戸に出て
鏡心明智流剣術を士学官で学び、土佐へ戻ります。
1860年、再び武市瑞山に従って中国、
九州を武術修行し岡藩でも直指流剣術を学んだのち、土佐に帰国します。
岡田以蔵と土佐勤王党
岡田以蔵は、武市瑞山が
尊王攘夷を掲げて結成した
土佐勤王党に加盟して京へ上洛します。
これ以降、
土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍らで、
勤王党同志と一緒に土佐藩下目付の
井上佐市郎の暗殺に参加します。
さらに薩長他藩の同志と共に
安政の大獄で尊王攘夷の志士の弾圧に
関わった幕府側の人間たちを
「天誅」と称して暗殺を繰り返します。
- 本間精一郎
- 宇郷重国
- 文吉
- 渡辺金三十郎
- 森孫六
- 大河原重蔵
- 上田助之丞
- 多田帯刀
- 池内大学
- 賀川肇
これらの人々の殺害に、
岡田以蔵が関わったと言われていますが、
一説では岡田以蔵は関与していないともあります。
岡田以蔵は当時、同時代の志士からは
「天誅の名人」と呼ばれていたそうです。
「人斬り以蔵」と称されたのは
後世になってからであり、同時に「幕末の四大人斬り」の一人とされました。
岡田以蔵と八月十八日の政変
岡田以蔵は1863年1月に土佐藩を脱藩、
その後起きた八月十八日の政変で
土佐勤王党の勢いは衰退し始めます。
岡田以蔵は
はじめは長州藩に匿われていたものの、
やけになった酒や女に溺れて同志から
借金まで繰り返すようになります。
この頃、旧友の坂本龍馬の紹介で
勝海舟の元に行っていたという逸話も残っています。
1864年に岡田以蔵は商家へ強盗に押し入り、
犯罪者として捕まり、土佐へ強制送還されます。
岡田以蔵の自白
土佐藩では、
吉田東洋暗殺事件に関与したとされる
土佐勤王党の同志たちが捕らえられ
拷問が行われたのです。
そこで岡田以蔵は、他の仲間と違って
なんと口を割ってしまいます。
武市瑞山は「以蔵は誠に
日本一の泣きみそだと思う」と酷評。
しかし、
岡田以蔵が自白したのには理由があり
口を割ることを恐れた武市瑞山が
毒殺しようとしたことが分かって、
裏切られたというショックで自白したとされています。
岡田以蔵の最期
岡田以蔵は
1865年7月3日(慶応元年閏5月11日)に
打ち首となり、さらし首にされます。享年28歳。
辞世はこちら。
君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空
君とは、武市瑞山のことで
彼の為に数々の人斬りをしたけれど、
それがすべて水の泡となってしまった…という無念の気持ちが表れています。
最後に
この記事では
岡田以蔵とはどんな人だったのか
何をした人なのかについてなどを
わかりやすく簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。