新井白石ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

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新井白石「読史余論」 現代語訳 (講談社学術文庫)

 

新井白石(あらいはくせき)とは
江戸時代中期の旗本です。
※政治家や朱子学者でもあります。

誕生時期:1657年3月24日
死亡時期:1725年6月29日

 

新井白石は
旗本という身分でありながら
実質的に幕政を主導しました。

 

新井白石とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
新井白石について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。

 

新井白石ってどんな人?

奇会新井白石とシドティ

新井白石の誕生日

新井白石は
1657年3月24日(明暦3年2月10日)
江戸(東京都)で旗本という下級武士である
新井正済の子として生まれます。

 

新井白石の誕生日は
明暦の大火の翌日だった為、
避難先で生まれたと言われています。

 

新井白石と学問

新井白石は、幼い頃から
学問において非凡な才能を発揮します。

最終的には儒学や朱子学、言語学、
文学などを習得して、漢詩も作ったそうです。

 

1678年に、父が仕えていた藩を
追われてしまい、貧乏な生活になってしまいます。

 

新井白石と木下順庵

それでも独学で儒学、史学に励んで
生活していた新井白石ですが、1686年に
朱子学者の木下順庵(きのしたじゅんあん)の弟子に。

学問を得意とした新井白石は
木下順庵の弟子の中で一番優秀でした。

 

新井白石と徳川綱豊

1693年には木下順庵の勧めで
甲府(山梨県)藩主の徳川綱豊(とくがわつなとよ)
仕えることとなります。

そして1709年に、徳川綱豊は
江戸幕府第6代将軍の徳川家宣となります。

新井白石も徳川家宣の家臣に取り立てられます。

旗本の息子であった新井白石が
将軍の側近の学者として、
相談役にまで昇りつめたのです。

 

新井白石の正徳の治

徳川家宣の政治下で、新井白石は
正徳の治と呼ばれる政策を行います。

  • 「生類憐みの令」の廃止
  • 正徳貨幣の改善
  • 年貢の増加
  • 正徳新令
  • 朝鮮通信使の接待儀礼の見直し
  • 閑院宮家の創設

ここでは新井白石の行った
正徳の治の一部を簡単に解説します。

 

「生類憐みの令」の廃止

第5代将軍の徳川綱吉が出した
”お犬様を大切に”の「生類憐みの令」を廃止。

徳川綱吉が遺言で、
この法令だけは残すように伝えたそうですが、
死後わずか1週間後に廃止されています。

 

正徳貨幣の改善

徳川綱吉の代に、金と銀の流通量が減った為、
お金を作るのに使う金や銀の量を減らしました
新井白石は貨幣の質をそれ以前のものに戻します。

この政策で物価上昇(インフレ)は改善しますが、
反対に物価が下がり続けて、深刻なデフレを招きます。

 

閑院宮の創設

皇室には、万が一
直系の血統が途絶えたときのために
宮家というものがありした。

  • 伏見宮
  • 有栖川宮
  • 京極宮

当時はこの三家でしたが、新井白石は
「閑院宮(かんいんのみや)という宮家も創設します。

ちなみに、明治天皇以降の天皇は
閑院宮家の血筋です。

新井白石の提案があったから救われたのですね。

 

新井白石の失脚

その後、7代将軍の徳川家継のときにも
新井白石は後見を務めます。

しかし新井白石の行った
経済政策はいきすぎたものが多く、
大名たちから反感を買うこととなります。

 

そして8代将軍に徳川吉宗が就くと
新井白石は失脚して、政界から引退します。

 

新井白石の最期

新井白石は
1725年6月29日(享保10年月19日)
亡くなります。享年69歳。

 

最後に

小説 新井白石---幕政改革の鬼

 

新井白石とはどんな人だったのか?
何をした人だったのか?などなど
新井白石について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。

 

少しでもあなたの参考になれば幸いです。

 

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