結論からいいますと
聖武天皇の死因は不明です。
一般的には暗殺されたと考えられていますが
時代的にかなり昔のことなので真実は謎です。
- 聖武天皇の誕生時期:701年
- 聖武天皇の死亡時期:756年6月4日
※聖武天皇の最期の年齢は56歳
仮に聖武天皇の死因が暗殺だった場合、
藤原仲麻呂による毒殺説が定説です。
聖武天皇はどんな人だった?【生涯(最初から最期まで)をわかりやすく簡単に】
聖武天皇(しょうむてんのう)は
飛鳥時代から奈良時代までを生きた
日本の第45代天皇です。
- 誕生時期:701年
- 死亡時期:756年6月4日
聖武天皇は国分寺や東大寺を建設し、奈良の大仏を造立したりと、現在の日本に残る建物などにも大きな影響を与えています。
聖武天皇はどんな人だったのか?
何をした人なのか?などなど
聖武天皇の生涯(最初から最期まで)を
以下でなるべくわかりやすく
簡単な言葉で紹介していきます。
※聖武天皇の死因考察に関係のある情報が盛りだくさんです💡
- 聖武天皇の誕生日
- 聖武天皇、天皇に即位
- 光明子が聖武天皇の皇后(妻)に
- 天然痘が大流行
- 聖武天皇と仏教
- 聖武天皇、国分寺の建設の開始
- 聖武天皇、東大寺の建設の開始
- 聖武天皇、墾田永年私財法を制定
- 聖武天皇の最期
聖武天皇の誕生日
701年、聖武天皇は文武天皇の子ども(第一皇子)として誕生します。
※聖武天皇の具体的な誕生日は不明
聖武天皇の実名は「首皇子」です。
天皇に即位してから聖武天皇となります。
豆知識ですが
首皇子の読み方は2つあります。
- 首皇子(おびとのおうじ)
- 首皇子(おびとのみこ)
聖武天皇の父である文武天皇は707年に亡くなっているため、聖武天皇は7歳の頃に父親を失っていることになります。
聖武天皇の母は藤原不比等の娘である宮子です。
聖武天皇、天皇に即位
714年、聖武天皇は元服が行われ皇太子なります。
しかし病弱であったことや
皇親勢力と藤原勢力が
対立していたなどの理由から
即位は先延ばしされます。
聖武天皇が24歳のとき(724年)に即位します。
光明子が聖武天皇の皇后(妻)に
以前から権力争いをしていた長屋王が
729年に長屋王の変で自害に追い込まれ
藤原氏はますます勢力をつけます。
そして同年、
藤原不比等の娘である光明子は
聖武天皇と結婚し、光明皇后となりました。
また、720年に
藤原不比等は亡くなっているため、
その後は藤原不比等の4人の息子が
政治を補佐していきます。
天然痘が大流行
737年、天然痘(ペスト)が大流行します。
藤原不比等の4人の息子は全員亡くなり、
政治の重要な役割を担う人物の
ほとんどが病死してしまうという事態に見舞われます。
その流れで
橘諸兄などがいっきに地位をあげ
橘氏、大伴氏、藤原氏などの
貴族の権力争いが大きくなります。
聖武天皇と仏教
740年、藤原広嗣が吉備真備を追放するために挙兵します。
各地で反乱や役病が起こり
世情が安定しなかったため
聖武天皇は平城京を出て
745年までの間、都を転々と移します。
聖武天皇はこういった不安があり
仏教に強くすがるようになります。
聖武天皇、国分寺の建設の開始
741年に聖武天皇は
国分寺建設の詔を出します。
国分寺建立の詔(みことのり)とは
各国に国分僧寺(こくぶんそうじ)と
国分尼寺(こくぶんにじ)を建てる命令のことです。
この国分僧寺と国分尼寺を合わせて
国分寺と呼ばれることになります。
聖武天皇、東大寺の建設の開始
さらに聖武天皇は743年に
東大寺盧舎那仏像の建設の詔を出します。
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)とは
あの有名な奈良の大仏のことです。
つまり
奈良県奈良市の東大寺の大仏殿(金堂)の
本尊である仏像(大仏)を指します。
これに加えてたびたび都を移して
災いから脱却しようと考えますが
官民の反発が強かったため、
最終的には平城京に復帰しました。
また、聖武天皇は同年に、墾田永年私財法を制定します。
聖武天皇、墾田永年私財法を制定
墾田永年私財法とは
「新しく切り開いた土地は
自分のものにすることができる」
という法律です。
これによって、従来の基本であった
「すべての土地と人民は天皇のもの」
という基本が完全に崩れます。
この法律により、
貴族の土地が増え、力も強くなり
天皇の力はますます弱まります。
聖武天皇の最期【死因考察】
聖武天皇は749年、
娘を孝謙天皇に譲位し
太上天皇となります。
これは男性としては
初めてだったそうです。
752年、東大寺の大仏が完成します。
聖武天皇は756年に亡くなりました。享年56歳。
聖武天皇の死因は不明です。
一般的には暗殺されたと考えられていますが
時代的にかなり昔のことなので真実は謎です。
- 聖武天皇の誕生時期:701年
- 聖武天皇の死亡時期:756年6月4日
※聖武天皇の最期の年齢は56歳
仮に聖武天皇の死因が暗殺だった場合、
藤原仲麻呂が毒殺したという説が
一般的には定説になっているようですが
現在その真実は謎のままとなっています。
そのため、聖武天皇の最後の様子なども
明らかになっていないためわかりませんが
時代背景や関係があった人の生涯などを辿ることで
聖武天皇の死因の片鱗が何かみえてくるかもしれません。