藤原頼通(ふじわらのよりみち)とは
平安時代中期の公卿、歌人です。
誕生時期:992年
死亡時期:1074年3月2日
藤原頼通とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
藤原頼通について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説していきます。
藤原頼通ってどんな人?
藤原頼通の誕生日
藤原頼通は、992年(正暦3年)に
藤原道長と左大臣の源雅信の娘である
倫子との間の長男として生まれます。
※藤原頼通の具体的な誕生日は不明です。
父の藤原道長は、一条天皇のもとで
内乱左大臣として朝廷を主導し、
権勢をふるっていました。
藤原頼通と藤原道長
藤原頼通は、村上天皇の第七皇子である
具平親王から、娘の隆姫女王と結婚してほしい
という願いを受け入れ、結婚します。
美女で文才もあった隆姫女王と、
藤原頼通は仲睦まじかったようですが
子どもには恵まれませんでした。
その後、三条天皇の時代になってから
三条天皇からも娘との結婚を
提案されますが、藤原頼通は断ります。
位の高い三条天皇の娘と結婚すると
大好きな隆姫女王が格下に追いやられて
しまうことを恐れたからです。
しかし、父の藤原道長は
皇族の娘を二人も嫁にできるとは
願ったり叶ったりのこと。
藤原道長は藤原頼通に
「男子がなぜ一人の妻で止まるのか」
と叱りつけます。
やがて藤原頼通は重病を患い、
これは具平親王の怨霊だとして
父の藤原道長はこの結婚を中止します。
藤原頼通の後一条天皇
その後は藤永道長の圧力により
三条天皇は、藤原道長の孫にあたる
当時8歳の後一条天皇に譲位します。
回復した藤原頼通は内大臣に昇進、
後一条天皇の摂政となります。
さらに父からも、
藤原氏長者を譲られます。
この時藤原頼通は26歳であり、
最年少の摂政となりました。
父の藤原道長は一度
太政大臣になりますがすぐに辞め、
藤原頼通の後見に努めます。
1019年に藤原頼通は関白となりますが
政治の実権は父が握っている状態で
政務の不手際を怒られ、勘当されたこともあったようです。
藤原頼通と後朱雀天皇
1027年、父の藤原道長が亡くなります。
その翌年、関東で平忠常の乱が起こり、
鎮圧するのに3年もの月日を要します。
また、この乱をきっかけに
清和源氏が関東に勢力を持ち始めます。
1036年、後一条天皇が亡くなり
同母弟の後朱雀天皇が即位します。
引き続き、藤原頼通が政治の実権を
握りますが、子女に恵まれなかった為、
養女を後朱雀天皇に嫁がせます。
藤原頼通と後冷泉天皇
1045年に後朱雀天皇は亡くなり、
後冷泉(ごれいぜい)天皇が即位します。
藤原頼通は天皇の外戚となる為に
後冷泉天皇に娘の寛子を結婚させますが
皇子は生まれませんでした。
藤原頼通と平等院鳳凰堂
1053年、藤原頼通が
平等院鳳凰堂を建立します。
他にも巨大な高陽院(かやのいん)を造営、
自身の権威を見せつけます。
藤原頼通と後三条天皇
1068年に後冷泉天皇が亡くなると
不仲であった後三条天皇が即位します。
後三条天皇は政治の実権を
藤原家から取り戻そうと考えて
荘園(私有地)の整理などを行います。
藤原頼通の最期
1072年、藤原頼通は出家して
弟の藤原教通(のりみち)に実権を譲ります。
しかし藤原教通も天皇と親戚関係になれず
摂関政治が途絶えることとなります。
藤原頼通は
1074年3月2日(延久6年2月2日)に亡くなります。享年83歳。
最後に
藤原頼通とはどんな人だったのか
何をした人だったのか?などなど
藤原頼通について
この記事ではなるべくわかりやすく
簡単な言葉で解説しました。
少しでもあなたの参考になれば幸いです。